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宇宙フェスに乾杯

 見慣れた冷蔵ケースの中に、見慣れぬ缶が鎮座していた。マットな黒地に巻きつけられた、こちらはぴかぴかと光沢のある青銀のラベル。白地で抜かれた英単語を視線でなぞる。シリウス。
 夜空で一等、明るい星の名前だった。
 新しく入荷されたビールなんだろうか。値札につるりと視線を移す。手書きの「宇宙ビール」の文字に、ちょっと強烈な引力を感じる。
 宇宙ビール。
 ……宇宙ビール?
 重力を振り切って発射するロケット、成層圏を突き抜けて、シリウスの星にぐんと呼ばれるそんな引力。20年前の9と3/4番線みたいなそれ、を、感じたと同時に今度はその下に併記されていた700円というお値段が視界一杯に飛び込んできて、僕を乗せたときめきロケットの推進力と、感じていたシリウスの引力は、ものの一秒で雲散霧消した。
 停止、落下、重力に引っ張られいつもの地表へ逆戻り。
 悲しいかな、350mlの缶ビールにぽーんと700円を即決できるほど、零細企業会社員の僕の懐は暖かくないのだった。

 東京のはずれの新高島平駅に、「若松屋」という家族経営の酒屋さんがある。お取り扱いのメインは日本酒で、何を隠そう若松屋さんはあの名品「久保田」の特約店でもあるのだ。季節ごとに展開される新酒に春酒、夏酒からひやおろしのラインナップ、丁寧に添えられたポップにきらめく優しい一言一言が、一度入店したら散財せざるをえない魔力を醸し出している。
 加えて若松屋さんは日本酒に限らず、焼酎、ワイン、クラフトジンにビール、甘酒なんかも取り扱っていて、綺麗に磨き上げられた冷蔵ショーケースには、ちょっとそこらのスーパーやチェーン店じゃ見かけない、魅力的なお酒がひしめいているのだった。この品揃えに惹かれて、遠方から車で買い物にいらっしゃる方も多い。ちょっとだけ宣伝をすると、高島平唯一?の特産品、「高島平ビール」は、この若松屋さんの店主が開発なさったそうで、これもとってもおいしいから、ぜひ見かけたら買ってね。近くの飲食店でも飲めるところがあるよ。
 さて、僕が仕事が忙しかった後の「ご褒美用のお酒」をもっぱらここで調達し始めて、もう随分経った。今回もご多分に漏れず、すでに「これは買いたいなぁ」と思う日本酒をひと瓶と、ワインを一本既に握りしめた状態だったりする。
 そこに、あの、宇宙ビールだ。
 ビール。まだまだ暑い日の続く昨今、その響きはとっても魅力的だった。そも宇宙ビールってネーミングからしてすっごく興味あるけど、めちゃめちゃ飲んでみたいんだけど、でも700円。700円かぁ。外で飲むビールのお値段……第3のビールが3本は買える……うーん……。
 踏ん切りのつかない僕の背後でどうやら同じビールに目を留めたらしい同居人が、僕には無い清いコミュ力で「これ、新しく入ったんですか?」と、素直に女将さんに質問している。いつでもおっとり優しい(聞けば何でも教えてくれる)女将さん曰く、
「そうなんです、新しく入ったの。でも高いわよねぇ」
 女将さんも、高いとは、思ってるんだ……。
 しかしながら、どうやら同居人もこのビールに興味があるということは発覚した。僕はここで決断する。
 買おう。この宇宙ビール。買ってみよう!とりあえず一本、……割り勘で。もちろん同居人がそれをOKしてくれればの話なんだけど……。
「これ買ってみてもいい? 2人で買えば350円ずつ……だし……」という、どうにも尻すぼみな僕のみみっちい提案は心の広い同居人によって受け入れられ、めでたく僕らはそれぞれの買い物に加えて宇宙ビール、もといシリウスをひと缶、手に入れたのだった。ちゃんちゃん。

 えっちらおっちら家に帰り着いた僕たちは、その後だらだらと各自自由な時間を過ごしてしまい、結局例の宇宙ビールを開けようという算段になったのは、すっかり冷房の効いた室温に体がぬるく慣れた昼ごはん前だった。
 どちらからともなく、じゃあ、そろそろ開けてみよっか、あれ、という流れになった宇宙ビール、もといシリウスを片手に、同居人が「どんな味なんだろうね」と呟く。
 わからない。想像がつかない。だって宇宙だ。あぁ、でもそういえば、宇宙ってラズベリーの香りなんだっけ?そんなコラムを遠い昔、読んだことがあるような気がする。ギ酸エチルの香り。もしかしたらこのビールも、そんな匂いを漂わせるのかもしれない。
 そわそわしながらタンブラーへビールを注ごうと缶を傾けたところで、側面に何か、文章が書いてあることに気がついた。

宇宙の若者が楽しみにしている「五次元フェス」の開かれる数々の星。
シリウス会場のレシピで醸造。
うちゅう先生に五次元フェスへの行き方を聞いてみました。
うちゅう先生「君の毎日が五次元フェスだ!君が宇宙だ!」

 ワーオ、ぶっ飛んでるぜ。
「これ五次元フェスのビールなんだって!! シリウス会場の! ! !」
「へぇ〜。でもどんな味かは相変わらず分かんないね」
 設定でテンションを爆上げしている僕と違い、同居人は至って冷静である。あっさり手元のスマホで「宇宙ビール」をググって「うちゅうブルーイングって会社なんだって。ホップにこだわりのある農家の人たちが山梨でやってるらしいよ」と画面を見せてくれる。……なんとなくネタバレっぽくて、ちょっと意識的にググらなかったのだけれど、ここら辺、僕の同居人はかなり淡白だ。イマドキともいう。画面の中には、頭に白いタオルを巻いて、ホップか何かを山程抱えた、人の良さそうな中年男性の笑顔が映っている。
 見てよかったのかな。いや、いいんだろうけど。普通に載ってるし。
 気を取り直してタンブラーに中身を等分に注ぐ。はい乾杯。なんでもない土曜日の午後に。それから、新しい素敵なビールとの出会いに。
 口に含んだその瞬間、いろんな果物が混じり合ったみたいな、甘酸っぱい香りが頭蓋骨いっぱい広がった。これがホップの香りなんだろうか。心地いい酸味と適度な苦味。それからちゃんとした「アルコール」感。喉から胃までとくとくと下っていくビールの軌跡を、体がちゃんと知覚できる感じ。飲み下すともう一度、ふわっとあの、夢みたいな香りが漂ってくる。
 普段食事と一緒にガバガバ飲む、切れ味!喉越し!! スッキリ爽快!! の、ザ・日本の食卓ビールとはまるで別種の、これはきっと本当に、それ単体で味わうためのクラフトビールだ。
 IPAの印字が目に入る。いっつもピルスナーとかIPAとかペールエールとか色々あってよく分からないのでググる。インディア・ペールエール。イギリスからインドへの長い航海で腐ってしまわないように、ホップをたっぷり、アルコールも度数高め。なるほどなぁ。
 「フェスのビール」という部分だけを取り出して、僕はちょっと勘違いをしていた。僕の思い出の「フェスのビール」はといえば、どうしても「夏フェス」に記憶が偏りがちなこともあって、サマソニのあの蒸しあっっついマリンスタジアムで遥か遠くのステージを眺めつつ飲む、最後の方は殆どぬるい水みたいな、とにかく重さのないコロナビールだったり、スコットランドの教会を改築したホールで飲んだ、こっちはよく冷えて爽やかな一番搾り(僕が日本人だと見抜いた現地のおじさんに、「イッチバンシボリあるよ〜〜!」と謎のテンションで勧められたのだった)だったり、なんとなく、そういう「軽くて爽快感があって、キレのあるビール」がフェスのビールなのかなと思っていた。
 このシリウスは、全然、あっつい中で、キンキンに冷やして楽しむためのビールじゃないような気がする。だってこんなの、ひとくちひとくちを、しっかり体中で味わうようなビールだ。
 少しずつタンブラーを傾ける。口の中に宇宙の欠片が拡がっていく。そういえば宇宙は毎秒膨張しているんだっけ。曖昧な知識が頭の片隅を流れ星みたいによぎって消える。
 宇宙のフェス。五次元フェス。それってどんなフェスなんだろう。僕が知ってる、人がひしめいて芋を洗うみたいになってるすし詰めぎゅうぎゅうなフェスと違うんだろうか。もっともっと無限に広くて、重力の強さだって全然違う、そんなステーションの中で行われるのかもしれない。集まるのだって、人間みたいな恒温動物ばっかりじゃなくて、それこそスターウォーズのいち場面とか、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーのいち場面みたいに、いろんな星のいろんな生き物たちで(あるいは生き物じゃなくて、アンドロイドとかかも)、その会場は全然暑くもないのかもしれない。なんならひと所に集まらなくったっていいのか?シリウス会場以外にも、アンタレス会場とか、イプシロン会場とかが存在しているのかもしれないし、それらが全部繋がってるのかもしれないし、もっと、瑠璃色で、濃紺で、ときどき金銀の羅紗が瞬く無限なのかもしれない。音楽に聞き入るための、ひんやりしたフェスなのかも。なにせ「うちゅう先生」曰く、僕の毎日が五次元フェスで、僕が宇宙なのだ。
 なんかもうそれって、梵我一如だな。
 タンブラーの中で、よく熟れたパイナップルみたいな色の、華やかな液体が揺れている。吸い込まれるような宇宙の深淵でも、きっと鮮やかに光る色をしている。
 無性にDaft PunkのDigital Loveが聴きたくなる。宇宙のフェスで聴きたくなる、セットリストを考える。しまったなぁ、もう一口分しか、この素敵なビールは残っていないので。
「次はさぁ、ちゃんとセットリスト考えて、フェスごっこしながらこのビール飲みたいなぁ」
 ぼやく僕に「それは良いね」と同居人が笑う。次はちゃんと一人一缶お手元にご用意できるように、それまでしっかり働かないとね。

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