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栗原康『超人ナイチンゲール』
〈一九世紀のイギリスに「超人」があらわれた。はりつけ、上等。このひとを見よ。えらいこっちゃ。わたしが世界を救うんだ。自分の将来をかなぐり捨てて、看護のいまを生きていく。ケアの炎をまき散らす。その火の粉を浴びて、あなたもわたしも続々と「超人」に生まれ変わっていく。
みんなナイチンゲールだよ。いくぜ。〉(「はじめに」より)
アナーキズムの研究家として知られる栗原康によるナイチンゲールの評伝。
國分功一郎による『中動態の世界』や東畑開人の名著『居るのはつらいよ』等、幅広い視点からケアの本質を追求する、「シリーズ ケアをひらく」からまたまた素晴らしい一冊が出現しました。
栗原さんの著作には大杉栄や伊藤野枝などの評伝がありますが、まさかナイチンゲールを手がけるとは思いませんでした。「白衣の天使」とアナーキズムのどこに接点があるのでしょうか。しかも「超人」の形容つきです。しかし、そんな疑問は冒頭に引用した「はじめに」を読んだ途端に氷解しました。何者かに支配されることを徹底的に拒み、今やりたいことへ命を燃やして進んでいく人物像こそ、まさに栗原さんがこれまでの著作で繰り返し訴えていることに他ならないのです。
本書はあくまでもナイチンゲールの評伝なので、あからさまなアナーキズムへの言及は避けられているのですが、これまでに比べると抑え気味とはいえ、栗原さんならではの饒舌でエネルギッシュな文体で、読者を最後まで引っ張っていく、痛快無比な魅力に富んだ作品となっています。
しかしナイチンゲールが「超人」であるとはどういうことなのでしょうか。
栗原さんが見出したナイチンゲールは、神の声をきいた神秘主義者でした。
栗原さんの説明を借りると、神秘主義とは、神との合一のことです。しかしそれはおのれが神になったと思い込むことではありません。
自分本位の世界観を他人に押しつけることは「認識できないはずの神までも客体とみなして把握してしまう」「近代的な思考の極み」なのです。
故に、栗原さんは神秘主義をこう定義します。
「神との合一、識別不可能性、永遠のいま、なぜという問いなしに」。
より詳しく述べると「神との合一とはなにか。それは今このときに永遠をかんじることだ。汝、なすべきことをなせ。やるならいましかない。いつだっていましかない。死の恐怖すら、わたしの従順さを止めることはできない。理由なき反抗。目的なき手段。もう永遠しかないもんね」
まるでランボーのことを描いているようですが、栗原さんが捉えたナイチンゲールは、こうした神秘主義によって近代的人間像を超えた「超人」なのでした。
第一章でナイチンゲールがいかに「超人」であったのかを呑み込めれば、後は一気呵成。永遠の今を生きたナイチンゲールの生涯から放たれるケアの炎に読者も否応なしに巻き込まれ、興奮を感じずにはいられないでしょう。
今年もっともエキサイティングな読書体験でした。
〈救うものが救われて、救われたものが救っていく。日常生活のなかで、そんなあたらしい生の形式をつくりだすことができるかどうか。それにふれた人びとの魂をどれだけゆさぶることができるのか。
ケアの炎をまき散らせ。看護は芸術である。集団的な生の表現である。看護は魂にふれる革命なのだ。〉(第六章 運にまかせず、その身をかけろ)