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マーガレット・ワイズ・ブラウン作、レナード・ワイスガード絵、内田也哉子訳『たいせつなこと』

マーガレット・ワイズ・ブラウンの本からは、優しくてまっすぐな声が聴こえてきます。有名な『おやすみなさい おつきさま』はもちろん、『ぼくにげちゃうよ』、『きんのたまごの本』etc・・・。いずれも単純で心地よいリズムがあり、押しつけがましさがありません。そんな彼女の紡ぎだす言葉は、絵と一体になって、どんなにシンプルな物語であっても、読者に確かな充足感と幸福感を残すのです。

『たいせつなこと』についてもそれは変わりません。「スプーンに とって たいせつなのは それを つかうと じょうずに たべられる と いうこと」、「ひなぎくに とって たいせつなのは しろく あること」、「あめに とって たいせつなのは みずみずしく うるおす と いうこと」・・・と続いていき、最後は 「あなたに とって たいせつなのは あなたが あなたで あること」と結ばれるこの薄い本の言葉も、読者にまっすぐ届くはずです。

レナード・ワイスガードの絵も素晴らしい。写実的なリアリズムとは一線を画しながらも、そこにしっかりと「スプーン」や「ひなぎく」や「雨」がある、と感じさせる存在感がレナードの絵には宿っています。こうした絵と言葉があいまって、本書は他の優れた多くの絵本と同様に、子どもだけではなく大人が読んでも満足の得られる作品となりました。翻訳した内田也哉子さんもきっとそんな思いから本書を手に取ったのでしょう。

こうした本に対して衒いなくまっすぐに向かって、その言葉を受け止めればそれでよいので、あまり分析的な読み方をしても・・・という思いもありますが、あえてその野暮を引き受けるならば、本書には不思議な点があります。

それは始まり方です。本書の本文にあたる部分は「スプーンは たべる ときに つかうもの」で始まるのですが、読んだことのある方ならお分かりのとおり、実はこの本は「本文」の前からもう始まっているのです。表紙をめくり、見返しをめくると題名が記載されているページになるのですが、題名の下に小さなノートの絵があり、右ページにコオロギの絵、そして左ページには「コオロギは くろい トンと とんで・・・」と始まり「でも コオロギに とって たいせつなのは くろい と 終わる文章が記されているのです(ここの文字はとても小さいので、読み聞かせのときは苦労します・・・)。
そしてページをめくると見開きで机の台が描かれています。左にはグラスに差したひなぎくやリンゴが置かれ、中央には立ったノートが開かれて、そこに改めて作者と題名が記されているのですが、ノートの左には「グラスに とって たいせつなのは むこうがわが すけてみえること」とあります。つまり本文の前に既に「たいせつなこと」が2つ言及されている、変わった始まり方をしているのです。なぜこのようなちょっと変わった構成になっているのでしょうか。

おそらく、この本は語り手(母親とみるのが妥当ですが、父親でも問題ないでしょう)が、折に触れて書き留めていた「たいせつなこと」のメモをノートにまとめつつある、という設定となっているのではないでしょうか。机に置いてあったノートをいざ開こうとしたらコオロギがちょこんと乗っていたことに気づき、コオロギにとっての「たいせつなこと」を書き留めた。そしていざ執筆、とノートを開いてまず、目の前にあるグラスにとっての「たいせつなこと」をメモした・・・といった具合です。

そして身の回りにあるスプーンや、近くの草、冬の雪などについての「たいせつなこと」を記し続けていると子どもが帰宅。そして夜になって子どもを寝かしつけ、脱がれた靴(ここでようやく語り手以外の人物の存在が示唆される)についての「たいせつなこと」を記した後、子どもの寝顔を見ながら「あなたは あなた」と書き始め、結びの「でも あなたに とって たいせつなのは」「あなたが あなたで あること」とノートの最後のページに記したというのが私が想像する一連の流れです。

この本が一見スタティックなつくりになっているにも関わらず、ある種の力を感じさせるのは、こうした「物語」が底に流れているからではないかと考えるのですが、いかがでしょうか?

※蛇足ながら、日本語版の最後の手書き文字は、訳者である内田也哉子さんのご主人(モッくん!)によるものだそうです。

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