坂本龍一『坂本図書』
婦人画報に掲載していた連載『坂本図書』全36回分と、坂本龍一と旧知の仲である編集者・鈴木正文との対談をまとめた一冊。
この本を半分過ぎまで読み進めてきて、石川淳の章に至ったとき「ただ残念なことに僕はこれまで、楽しむために本に接した記憶がない。」という一節を読んで、軽い驚きを覚えました。帯にもある通り、坂本龍一が「無類の本好き」であることは、多くのファンに知られていたからです。
それでは坂本にとって本とはどういう存在だったのか。坂本自身は先に引用した一節に続いて「普段読むのは(中略)知識を得、見識を深めるための本」と述べているのですが、本書を読んでいくと、それだけにとどまらない存在であったことがみえてきます。
本書で取り上げられているのは、ロベール・ブレッソンや小津安二郎、大島渚、タルコフスキーなど、映画音楽も数多く手がけた坂本らしい書物もあれば、中上健次や村上龍といった親交のあった作家、ジョン・ケージや武満徹のように尊敬していた作曲家の著作など多岐に及びますが、これらについて語る文章を読んでいくと、坂本龍一にとって、本とは多様な世界と深く関係を結んでいくための鍵であったのだとの思いを強くしました。彼の音楽がそうであったように、彼の読書もジャンルや国境を超えて、世界の複雑さに奥深く分け入っていくものだったのです。
そんな彼が、その(早すぎる)晩年において、純粋に楽しむための読書を知ったと語っていることは感慨深いものがあります。彼の生み出す音楽においても、傑作『async』や遺作の『12』が音そのものの歓びを追求していたように、晩年の坂本はある透徹した境地に達していたように思えてなりません。それは決して「悟り」ではなく、読書そのものの、音そのものの楽しみに触れながら、これからの人生を歩んでいこうという静かな決意だったのではないでしょうか。石川淳のエッセイ集『夷斎風雅』の中で出会った好きな言葉として、「無常の観念を杖について、ひとり老の坂を越えなくてはならない」を引用しているのが、それを裏づけていると思います。