人はなぜ「かわいそう」と思うのか
なぜ人は他人のことをかわいそうと思うのか。
「あの人は貧乏だからかわいそう」
「親が小さい頃になくなってしまってかわいそう」
「こんな凄惨な事件が起こるなんて、遺族がかわいそう」
こういうかわいそうもあれば、
「新興宗教にハマって、あいつはかわいそうなヤツだ」
というようなかわいそうもある。
世の中には色々なかわいそうがありそうだが、なぜ人はかわいそうという感情を持ったのか。その点について深掘りしていきたい。
まずかわいそうというのには2種類存在すると思った。
冒頭の例からいうと、下記のような、人を憐れみ、傷むような気持ちだ。
あの人は貧乏だからかわいそう。
親が小さい頃になくなってしまってかわいそう。
こんな凄惨な事件が起こるなんて、遺族がかわいそう。
これらは人の気持ちに寄り添うようなイメージだ。
大変だったろうな…。かわいそうに…。
一方、それとは別に下記の気持ちはどうだろうか。
新興宗教にハマって、あいつはかわいそうなヤツだ。
これは完全に相手を見下している。相手を突き放すようなイメージだ。
そんなことするなんて、ありえない!
対応は真逆であるが、どちらにも共通点がある。
それは一旦自分のものさしで、かわいそう度を測っているということだ。
どういうことかというと、例えば、小さい頃に親を亡くし、それからずっと貧乏で、学校でもいじめられて、就職も出来ず、ずっと貧乏のままの人がいるとする。
そうした人を見たとき、自分の“かわいそう”ものさしで、その事象がどれだけかわいそうかと測定しているのだ。
自分の概念で、「親が早く死ぬ、貧乏、いじめ・・・」。そういった条件が自分にとって、ありえない、耐えられないと思った場合、その相手のことを「かわいそう」だと思う。
一旦自分の価値観で、対象物を推し量っているのだ。
自分の価値観で、どのくらいかわいそうか測定する
ではそのあと、対応が真っ二つに分かれてしまうのはなぜだろうか。
これは、相手とどういう風に接していくスタンスを取っていくかで、決まってくるのだと思う。
つまり、相手と助け合って連携して生きていきたいと思っている人。
こういう人は人に寄り添い、助け合っていく。
逆に、自分の価値観に当てはまらない人は排除していく。自分のスタンスは変えない人は、蹴落としていく。そういう対応を取っていくのではないか。
かわいそうと思うときは、まず自分の価値観でその事象を測っている。
人と共生していきたいと思う人は、助ける。自分以外の価値観を認めない人は排除していく。
かわいそうというのは、相手とどう関わって生きていくかを象徴する感情なのだと思う。