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かわら版No.58 米沢の食と風景 ~米沢の食の政策とその基礎理論~ 米沢ごはん・第1回
いつもお読みいただきありがとうございます。
私たちは、あちこちに残る歴史の断片を、どんな小さな欠片だとしても、それを尊重し、この上なく大切にする気持ちはあるでしょうか。地元の食材たちを大事に、舌で楽しむだけでなく、その歴史や文化をも、美味しくいただく気持ちを有しているでしょうか。
米沢市において、骨太の食の政策を考えていく、必要があります。
次の引用は、1878年(明治11年)6月から9月にかけて上杉藩領であった置賜地方を訪れた英国人女性のイザベラ・ルーシー・バードの著作である『日本奥地紀行』 ("Unbeaten Tracks in Japan" 1880年(明治13年))からです。
《米沢平野は、まさしくエデンの園である。「鋤の代わりに鉛筆で耕したかのよう」であり、米、綿、とうもろこし、煙草、麻、大豆、茄子、胡桃、西瓜、胡瓜、柿、杏、石榴が豊かに育っている。晴れやかにして豊穣なる大地であり、アジアのアルカディアである。》
私たちのまち米沢では、バードが象徴的に描いたように、多様な食物を地域で育て、それを食していました。バードは、その光景に感動を覚え、アジアのアルカディアと称しました。その後、日本は、稲作を中心として単一栽培へと近代化し、それまでの地域の風景は特徴を失い、現在それさえも課題に直面しています。農村風景とは、そのままそのまちの食卓の景色であったことは、もはや忘れがちな事実です。
また、これは商店街の風景にも言えます。私が生まれた昭和50年中頃は、各地区の通りには、八百屋、魚屋、肉屋、酒屋、豆腐屋、納豆屋など、個別の専門小売店が並び、この他に生活に必要な各個別の小売店が軒を連ねていました。そして時代が下り、いまでは、コンビニエンスなまちとなり、さらにはドラックストアなまちになってしまいました。
この点、例えば、イタリアでは、1983年にカルロ・ペトリーニにより、イタリアの伝統的なワインと食を守ることをきかっけ・目的に、1986年にはスローフード協会が設立されています。
※スローフードとは、私たちの食とそれを取り巻くシステムをより良いものにするための世界的な草の根運動です。
グローバル経済の中で、世界の均質化(どこでも同じ)が進み、地元の風景と地元の食はどんどん関係のないものに変わっていっています。
これから、かわら版では、米沢の食の政策について、「米沢の食と風景 ~米沢の食の政策とその基礎理論」米沢ごはんと題して、継続的に考えていきたいと思います。これは、「かわら版No.43 まちのグランドデザイン・アルカディア構想、について」で頭出しした、よねざわビューティフルベイスン(よねざわ美盆地)プロジェクトや米沢の歴史文化の承継と創造再生計画などの、私なりの具体的な政策提案ための試論となります。
最近、真田純子氏の著作「風景をつくるごはん 都市と農村の真に幸せな関係とは」のように、地域の食と風景について、「ヨーロッパ的な観点の導入がありうることを、著者は提案している。食文化と農村風景を結びつけるという新しい視点から、そこに関わる私たちに、環境の保全を追求した風景と食の美しさの可能性を示唆した」として、日本の風景を考えながら、土地と結びついた食による地域づくりを志向する研究成果が、注目を集めつつあります。
米沢は、地域都市と地域農村が、ほどよく調和し、美しい山並みの風景を残すまちです。しかし、まちのドラックストア化や栗子山風力発電事業のような自然景観や歴史・文化景観の改変を伴う事業が進められようとしており、今、大きな過渡期を迎えようしています。
米沢市においても、食文化と農村風景を結びつける視点から、骨太の食の政策を考えていく、必要があります。
この度も、最後までお読みいただきありがとうございます。
かわら版No.58