非日常の今だから問えること 【青二才の哲学エッセイ vol.17】
予断の許さない日々が続いている。窮屈で苦しい日々だと様々なメディアが伝える。そういう中にあっても私としては正直なところ、今の働き方や暮らし方が悪くはないかなと思うところがいくつかある。
もちろん現在進行形で、苦しんでいる人達、大変な思いをしている人たちがたくさんいるわけで、社会全体としては早く正常な日々に戻った方がいいに決まっている。ただ、こういう時だからこそ考えられることがあるのではないかとも思うのだ。非日常の今だからこそ、今までの日々で本当はなくても良さそうなこと、見直した方が良さそうなことに気づけるのではないか。自分の本当にやりたいこと、本当はこうしたいという気持ちにも気づくきっかけにもなるのではないかとも思う。
私は普段、印刷会社の営業として働いている。緊急事態宣言が出てほぼ在宅ワークになった。自分でもびっくりするくらい、それからはストレスが全くと言っていいほどない。いろんな人のところを回らなくていいというのが理由になっている気がする。営業としてはどうかと思うが。
いつもは上の方々から、いろんな会社をとにかく回れ回れと言われていた。飛び込みの新規開拓もどんどんやってこいと。会社のため、何より自分のためだと嫌々行っていたのは否めない。ノンストレスだったのは本当に仲の良いお客さんのところくらいだ。
今は電話とメールのみでの対応になっている。ストレスがなくなるだけでなく、必然的に時間も余る。じゃあ後は待機かというとそうではなくて、空いた時間で改めて営業用のチラシを見直して作ったり、デザインの勉強をしたりしている。これは全然苦にならない。むしろ楽しい。以前より8時間フルパワーで働けている気さえする。ほぼ主体的にやっていることだ。モチベーションの力は大きい。
これらは熟練度や経験値が低いことでもあり、すぐに結果が出るようなものではないだろう。営業という役割として、売り上げが減っては意味がないのは重々承知している。ただ、モチベーションの上がらないことを続けていても、それ相応の貢献しかできないのではないかとも思う。貢献度を決めるのは私ではないが、大した伸び代もないような気がしてしまう。私なりの貢献の仕方があるのではないか。今後の私自身のキャリアという点から見てもそうだ。モチベーションの上がることの方が当然、努力も長続きする。それで成果を出せて生きていくことができたら最高だ。もちろんそんな甘くはないだろうけど、今は準備するだけの時間があるとも捉えられる。
また、「今の方が快適」という子供達もいるかもしれない。普段の学校がつまらない、行くことが辛いと感じていた子供達だ。そういう子達は、もしかしたら自宅待機になってホッとしているかもしれない。私も中学生の頃ではあるが、人間関係の悩みを抱え、学校に行きたくない、行くことが辛い、という時期があった。その時にもし今のような外出自粛要請が出ていたら、おそらくホッとするだろうなと想像してしまう。
こういう時だからこそ、これからの自分についてじっくり考えるいいチャンスだと捉えたらどうだろう。学校に行かない、という「積極的な」選択肢があってもいい。行くにしても学校での過ごし方、周りの子達との関わり方をじっくり考えてみるのもいい。(人間関係に悩んでいる子には「友だち幻想」という本をおすすめしたい。なんらかのヒントになると思う)悩みをお父さん、お母さんにぶつけて腹を割って話すのもいいだろう。親には話しづらいなら学校以外の相談機関を利用するのも手だ。N高等学校のように、今は選択肢が増えていて羨ましい。世間の見方も少しずつではあるが変わってきている。
少し話が脱線してしまったが、ともかく、こういう時だからこそ考えられることがあると思う。それだけ周りの環境の力というものは大きい。「わたしにしかないもの」でも触れたが、私は、人は本当の意味でひとりきりで考えることはできないと思っている。今ひとりきりだとしても、心の中にいつも誰かがいて、誰かのいろんな価値観から影響を受けている。今のこの社会情勢でいろんな人の言葉が溢れていて、もちろん私もその影響を大きく受けていることだろう。私の言葉が私のものかどうかははっきりしない。私の心という境界線はとても曖昧なものだ。そう考えると、やはり非日常の今は考える環境として見逃せないものだと思う。今だからこそ、というか、今しか問えない、考えられないことがあるのではないだろうか。
とはいえ、やはり今の社会情勢を思うと、早く終息してくれることを願う。私にできることは本当に微々たることしかないが、ともかく家に居ようと思う。そしてこの日々が過ぎ去った時のために、できる限り前向きに物事を考えて準備していきたい。考える時間はたくさんある。
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