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体を鍛えたいから走るわけじゃない【青二才の哲学エッセイ vol.23】

 最近は週1でランニングしている。限界が来るまで走る。

 走っている最中はひたすらきつい。そこまで早いペースではないと思うのだが、心臓とか肺とか締め付けられるように苦しい。たまにいわゆるランナーズハイの状態がやってくるのだが、来ないときは地獄だ。誰か確実に来る方法を教えて欲しい。

 走った後は筋肉痛になる。血豆ができる。足の爪にも血がたまる。
この前は爪に溜まった血を抜きたくなって剥がしてみたら、その瞬間に溜まった汁が目に向かって勢いよく飛び出してきた。眼鏡をしていて本当に良かった。

 厳しい高校野球の練習から離れて10年近く経つ人間がこれだけ走れば、こんな感じで大体苦しくて痛い思いをするが、それでも走り終わった後はやりきったという充足感に包まれる。絶対に苦しかったのに、こいつのせいで楽しかったに変わっている気がする。それでまた週末に走ることを楽しみにして過ごす。次はどこ走ろうか、もっと遠くに行きたい、違うルートを選びたい、なんて思いながら。この繰り返しで今に至っている。

 その日その日の楽しみだけではなく、継続することによる喜びもある。少しずつだけれども前よりも遠く、速く走れるようになったことが純粋に嬉しい。つい先日は17km走ることができた。計測アプリで道のりをたどったから間違いないはず。(でももうしばらくやらない。膝関節が軋んで歩くのも辛かった。)時間も記録していて、浮き沈みはありながらも大まかに見て右肩上がりである。自分の成長が目に見えてわかりやすいことが一番の嬉しいポイントだ。前の自分を超えているという満足感がある。なんとなく、貯金が趣味の人の気持ちがわかる気がする。増えていく残高を見るときと、走って伸びた記録を見るときの達成感は似ているのではないか。前の自分より良くなっているという喜びが、もっと頑張ろうという行動に繋がっている。

 ふと、最近思ったのだが、続いているのはこうした喜びだけでもない気がする。おそらく、走ることが弱い自分の心の支えになっているからではないか。

 私は元々自己肯定感の高い人間ではない。気持ちの浮き沈みも激しい。
ふとしたきっかけで「どうせ自分はダメな人間だ」とか「何も取り柄がない」とか思いがちだ。すぐジメッとする。たまに見かける体育座りをしてキノコが生えているイラストがよく似合う。
 
 そんな私に、走ることは、自分でもできるじゃんという自己承認を与えてくれている気がする。単純な私の性格が幸いしているのか、落ち込んでいる時は特にそうだ。前よりも走れたら「やればできるじゃん」って思ってスッキリする。ちょっとした達成感が自分の支えになっている。弱い自分を打ち消してくれる。だから走ることはやめられない。より良い自分が欲しくて、限界まで走りたくなる。そりゃできる自分の方が好きだもの。強い自分の方が好きだもの。マメができて、筋肉痛になるくらい可愛いものだ。

 私は走ることでささやかな幸せを享受している。

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