私の生きづらさは性格の問題の範疇を超えない。

生きづらさの裏には、いろいろな理由がある。

家庭環境や貧困問題、うつ病、不安障害、ASDなどの先天的な発達障害等々。

私の生きづらさの裏には・・・


なにもない。

裏付けはなにもない。

ネットや本で必死になって探した時もあったし、誰かの不幸にすり寄って理由づけにしようと思いついたこともあったけど、それもなんだか卑しくおもえて、結局やめた。


強迫症の気や、躁鬱の気はあるけれど、どれも名乗るのは憚られる程の軽度だと思う。

なんら生活に支障はきたしていない。朝も起き上がれるし、遅刻もしない。


でも、生きづらいのはほんとうのことで、気づくと理由もないのに涙が流れていたり、過呼吸になっていたりする。


単に、考えすぎる性格だから、脳の一部を不必要に働かせすぎるから、社会が正確に見えすぎているのだと思う。

視界良好すぎて、いろんなことが不安になるんだと思う。

考えすぎることで、過剰な結論に辿り着いているのではなくて、考えすぎることで、こんな不透明で暗雲立ち込める社会をフィルターかけずに直視できてしまっているのだ。

私の頭の中は、その目で捉えた社会についてべらべらようしゃべる。もう静かにしてくれよ!うるさいよ!と懇願しても、そんな私の気持ちとは裏腹にしゃべるしゃべる。脳内を言葉が常に駆けずり回っている。

じゃぶじゃぶ頭の中を洗濯できて、ネガティブ思考を一掃できたらいいのに、と一日に何度も考える。

視界はぼやけているくらいが多分ちょうど良くて、それは、考えることがめんどくさくなってやめることだったり、好都合の情報にだけ一旦目を通しておくことなのだと思う。

今の社会を直視しても、良いことはあまりない。

ただ、これは私の性格だから、今はとにかく本を読んで、答えを探して、ここに思いをぶちまけて、たまに誰かに話して、、、考える体力がなくなるまで生き延びるしかないのだろうなと思う。


生きづらい、と嘆くだけじゃなくて、生きづらいなりに色々解決策を試して、足掻いてないといけないなとおもう。私には、生き辛さに正当な根拠がないから。


私が親近感を覚える人たちはみんな、歳を重ねると考える体力がなくなって自動的に諦めが尽きやすくなるから、生きるのが楽になるよ。というから、私はこれをこのまま、まるごと信じている。


もし、同じ人がいたら、理由なき苦しみ者同士、傷を分け合いましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?