【視点01-美術館×久留米絣】 竹口浩司さんインタビュー
●竹口さんの文章の源にあるもの
――私、竹口さんが書かれたものを、図録などいくつか拝見しまして。
語彙が多彩で、文章が非常に詩的ですし、どうやったらこういう風にご自分の気持ちから離れないところで学術的な文章が書けるのかな、と。
影響を受けた文学者や哲学者を教えていただけますか。
えらいところから球が飛んで来ましたね(笑)。
そうですね、僕の本棚に「心の書棚」っていうのがあって、そこに並んでいるのは中上健次と保坂和志がわりと多いです。
これは単純に(自分の)スタイル(*文体)なんですけれども、とにかく一文が長い。
中上健次に影響されてるというよりは、とにかく一文が長いというのが、元々そういう僕自身の頭の癖というか。整理して分類して、短い文章でたんたんたんと起承転結、っていうのが苦手なんですよね、きっと。
どこが主語でどこが目的語でどこが述語か、一読しただけでは分からないような文章っていうのを学生時代も書いていて。もともとそういう性癖(笑)、志向があった中で中上の文学に会って。
私自身は、最終的には(大学で)文学部の美術史にいたんですけど、周りに対して非常にコンプレックスがあったのは、それは今もなんですけど、子供の頃に全然本を読んでなくて。美術(に触れること)も子供の頃は全然なくって。そういう家庭ではなかったので。
だからね、子供の頃にすごく影響を受けた小説とか絵本とかはほぼないんですよ。本当に大学入ってからぐらいで。
で、中上健次は大学の時に、大学の先輩からこういうことをやっている人がいるっていうのを聞き、その時に読み、そこから非常に感銘を受けて。
一番ひどい時は、大学生の時にバックパッカーでフランスとか回ってた時に、リュックの中に中上の全集を二冊ぐらい持っていくという(笑)、そういうちょっとばかなことをしていましたね。
自分自身の行動とか考え方に直結しているっていうのではないんですが、二重世界というか、今、目の前にあるこの世界が全てじゃなくて、という部分に惹かれています。
どんな文学でも小説でも、オルタナティブな世界というのをどういう風に立ち上げるかっていうのはあるんですけれども。
出会い方も、出会った時期もあると思うんですけど、ずっと中上は僕にとって大切な書き手ですね。
「交わるいと」《※1》の展覧会をやる前に、「糸の先へ」《※2》という展覧会を福岡(県立美術館)でやった時も、テキストを中上の小説の一文から取ってるし、しょっちゅう中上から引用してるんですよ(笑)
――梨木果歩を引用してらっしゃるものもあったり…。
梨木果歩も同じように人から勧められてなんですけれどもね。
――人から勧められて自分の中に大きく残っていくものってある気がします。
勧めてくれたこと自体も大事なこととして持ち続けるような。
そうですね、その時の勧めてもらった光景も引用するたびに蘇ってくるというか。
勧めてくれた先輩とはもうほとんど連絡とかしてなくて。不義理な後輩だな、とは思うんですけどね。そうやってずーっと繋がっている感じはあるし。
保坂和志はなんでなのかなー、あんまり覚えてないですね。
覚えてないですけど、やっぱりある時から読むようになって。
同僚に言われましたね。「保坂和志が好きって言ってたけど、君の文章がもう保坂和志みたいになってるね」って。
それは嬉しいと同時になんかまあちょっとショックで。文章に個性がないというか、流されてしまっているというか。自分の中でもなんでそうなってるのか、っていうのは分かんないんですけれどもね。
あれやこれや長くなりましたけど、(影響を受けた作家としては)中上と保坂和志かなー。
●美術館でできること
――研究者の文章って、一文が簡潔で論旨がしっかりしていて論拠がはっきりしていて、っていうことが尊ばれる世界だと思うんです。それで、研究の世界の中でどうやったらこんな文章が書けるようになるのかな、っていうことを思ったのでお聞きしたかったんです。
美術館ももちろん研究することが根幹にあって、そこから展覧会を作るっていうのはあるんですけど、(自分は)研究者じゃないと思っているので。
研究する人は大学で論文を書いて、世の中にその論文を問うっていうことをしてもらったらいいなと思ってるんですけど、私はむしろ研究者のなりそこないというか(笑)。
もともとはね、学芸員になろうとかって全然思ってなくて、どっちかと言えば大学に残って自分の名前で本を出したい、っていう欲望があって。
それがうまくいかなかったっていうのもあったんですけど、学芸員になって、美術館に入って良かったな、と思ってるんですよね。
自分が美術館でできること、自分の美術館での立ち位置って何かな、と思うと、やっぱり物事を整理して分類して体系的に研究していくのではなくて、もっとこう生の部分をどんどん断片的に出していくこと。結構いい加減と言えばいい加減なんですけど、そういうやり方を心がけようと思ってたんですよ。
なので、例えばエッセイを書く時にも賢そうな本からは引用しないとか。注をあんまり付けないとか、注も本文の方にごんごん入れてしまうとか。論文じゃないやり方を意識してやるようになって。
確信犯的にやってるところもあるし、その方が書きやすいっていう、ある種の逃げみたいなものもあるんですけど。
福岡県立美術館にいる時に、学究的な世界では認められないんだけれども、でもそれ(*学究的でないやり方)の役割っていうのもあるな、っていうのを実感することもあったので。
大学に入るまで何か書いてきたわけではないですし、文章を書くのが好きやったわけでもないんですけど、冨永さんも詩的っておっしゃってくださったんですけど、ワードの選び方が詩的だったりあとウェット(笑)だったりするのが、大学の頃からずっとあって。
それのいい悪いはもちろんあると思うんですけど、ある程度枯らさずにどうやって書き続けられるかな、っていうのは意識してはやってますね。
――広島市現代美術館での「交わるいと」展は、作家を二人ずつ組み合わせて紹介していく展覧会の構成になっていましたが、その組み合わせ毎の解説を読んで私は衝撃を受けまして。
どこにかと言うと、(平面だと思っていた)布が実は構造体であるということを意識するのが初めての体験だったことと、福本繁樹さんの作品での、キャンパスに描く絵画と対比して(布地の)染めは構造の中に色が入っているんだ、というご指摘です。
それまで布に触れていても全然そうことが見えていなかった(ことに気づいて)、私自身の視野が一気に変わりました。
展示でこんなことができるのか、っていう衝撃が本当に忘れられなくてですね。
例えば染めっていうのは布の中に(染料が)染み込むっていうことですよね。
布の上、支持体の上に展開されるものではないっていうのは、それは別に僕のオリジナルではもちろんないですし、染めの世界では普通に言われてることなんですけど、ただ僕の(展示の)やり方とすれば、要は染めという専門的な世界の中からもうちょっと違うところに引っ張りあげるというか。それはかなり意識しています。
ちょっと話が先走ってしまうかもしれないですけど、伝統工芸の公募展に審査員としてたまに呼んでいただくんですよね。
で、肩書きめっちゃ謎じゃないですか。〈広島市現代美術館学芸担当課長〉で、伝統工芸の審査するってどういうこと?っていうか。
――確かにそうですね(笑)。
めっちゃ謎で、でも多分その謎の部分、現代美術を見ている人が伝統工芸を見るっていうところが重宝がられている、という部分があるんだなって思います。
伝統というのも、よく言われてることですけれども、同じことを繰り返すんじゃなくて創造することが伝統であり、伝承と伝統は違うんだ、っていう。
伝統工芸の世界の人でも工芸を研究している人でも、もちろんその〈創造的な部分〉というものを意識して言葉を紡いだり作品を作っているんだけれども、ただ全然お門違いというかジャンルが違うところに身を置いている僕が、こっちとこっちのことをまあむりやり結びつけて(みせる)。
それは非常に自分の主観に基づいていることでもあるんですけれども、けれどもそういうことをやっちゃう、やっちゃえることが、作り手の刺激にもなりますし、同時に見る人も、冨永さんが言ってくださったみたいに、そんな見方が出来るのか、と。
多分(指摘そのものは)普通に、伝統工芸の世界でも工芸の世界でも言われてることなんだと思うんですよね。それをちょっと違うターム(*用語)とか、違う視点で紹介する。
で、その時に僕自身の非常にうっとうしいというかウェットな(笑)言葉遣いとかが絡まって、良く言えば詩的、悪く言えばなんか面倒くさい表現というか日本語になって出てきて。
竹口の書く文章とか言ってることっていうのはすごくすっと入ってくる、って言ってくれる人がたまにいるんですけど、大半はよく分からないって言われるんですよ。極端なんですよね、わりと。
――今のお話は、私たちの「ひろかわ新編集」という、地域の資源を編集する、つまり組み合わせることで新しい見方を提示していくという活動の、その〈編集〉に近いことなのかなという風に聞きながら思っていたんですが。
僕はね、編集とかできない人なんですよ。
編集ってちょっと俯瞰して、分類整理をして、ちゃんとふさわしいものを組み合わせるっていう作業だと思うんですけど、とにかく僕は分類整理とか、俯瞰ということが本当に苦手なところがあって。
で、結局それ(*自身の手法)は、さっき冨永さんが言ってくださったように、自分の感覚とか感じたところから離れずに書いている、そこしかないんですよね。
――ご自分の感覚に沿って書くことは竹口さんの展示の手法にも反映されていて、非常に魅力的だと思います。
危うい部分なんですけど、でもそれが自分の持ち味と言ってしまえば持ち味だと思いますし、とにかくモノを見るっていう体験は大切にしていて、そこからどうやって言葉なり、糸口なりを紡ぐかっていうのは心がけてはいますね。
その一方でどんどん研究の世界から遠ざかってしまったりとか、情報なりいろんな知識なりを吸収する(ということが)、年齢的にも時間的にも難しくなっているので、このまま同じようにやっていくのはちょっと厳しいかな、と思ったりもするんですけれども。
――私の希望ですけど、その状況の中からまた違うステージが見えてこられるのではないのかな、という気もいたします。
そこ、ちょっと粘り強く、というかね。
――楽しみです。
●二人の言葉
すいません、ちょっと思い出しました。もう一個だけ。
私自身が福岡県美に入って、たまたま工芸とか染織に触れることになって、いくつか展覧会等をして。
で、広島現美に行っても「交わるいと」なんかをやって今があるんですけれども、「交わるいと」と「糸の先へ」の展覧会、両方に出品してもらっている作り手さんも何人かいらっしゃるんです。
で、その中で本当に大切に心に留めているのが、鈴田滋人さんとのやり取りというか、教えていただいたことで。
鈴田先生のご自宅に(伺った時に)、工芸をずっと学生の頃から勉強してきた訳じゃないですし、美術館に入って成り行きでやるようになって、「ほとんど素人同然なのに、こんなに先生にいろいろお願いしたりとか、お時間頂戴したりしてしまって、しかもこんな展覧会までやってしまってすみません」みたいなことを言ったんですよね。
そしたら鈴田先生が、「竹口さんを素人とは思わないが、もし素人だとしたら素人にしか見えないこととか、言えないこととか、見せられないことっていうのがあるんだ」と。
専門家はどうしてもきゅーっと(対象の)中に入って自明のこととしていることが多すぎるから、それをじゃあ素人という竹口が、(専門家が)当たり前と思っていることをもうちょっと解きほぐし、違う視点で外に出す。
そうすることによって作り手にも世の中にも、それこそ冨永さんがおっしゃってくださったみたいに、「あ、そういうものなのか」っていう効果が生まれるから、「素人とは思わないが、素人であるなら素人にしかできないことがある。竹口さんはそれができると思っている」と言ってくださって、それはすごく励みになったというか。
その部分しか僕の強みはないので。
そうなったら、自分がモノを前にどういうふうに見ているかという体験とか、あるいは自分が何を読んできたかっていう、感受性というと非常にね、うさんくさく聞こえる部分もあるんですけど、何を吸収してきたか、っていうところをベースに書くしかないのかなと思ったりしていて。
――美術館という学術的な担保や論拠をもとにモノを見てもらう場に、自分の感覚的な部分、感性的な部分を持ち込んでお客さんとつながる形で展覧会をするっていうのは、実はとても難しいことなんじゃないかなと。
そのやり方を続けてこられたっていうのはすごいなあ、と。
大学時代に出会ってずっと親友でいる数少ない一人が、あれは「糸の先へ」だったかな、展覧会を見に来てくれて、で、「いや、竹やん(*愛称)らしい展覧会だね」って言ってくれたんですよ。
僕は大学時代はフランス近現代美術が専門で、先ほどお話ししたように全く工芸とかやってませんし、ジャンルとしてもやってることも(大学時代とは)全然違う美術館に入って、たまたま(工芸や染織に)出会ってそういう展覧会まで行き着いちゃったみたいなものなので、(その親友の言葉が)どういうことかな、と思ったら、僕、大学の時に古着にすごくはまっていて、ずっとジーパンとかアロハシャツなんかを着ていて。
ビンテージのジーパンとかが流行った時代なんですけど、高いものだからそんなには買えないでしょ。でも、ある時古着屋のおっちゃんが、「ビンテージのジーパンは買えへんけどビンテージのバンダナは結構買える」って教えてくれて。
アメリカの70年代、80年代ぐらいのバンダナを結構その店で扱っていて、それを好きで集めて、ところ構わずうんちくを垂れたりとか、常にジーパンのここ(後ろポケット)にバンダナを挟んでちょっとチラ見せをしていたっていう。
(バンダナが)ちょっと僕の、トレードマーク的な所があって。
で、その親友が「竹やんらしい展覧会だね」って言ってくれたのは、「だって竹やんずっと、ジーパンの後ろにバンダナ差し込んでて、要はその時の布への愛着がここ(*展覧会)につながってるんだよ」って言ってくれて。それはね、自分の中でも目から鱗というか。
――気が付いてなかった部分の指摘だったんですね。
そうか、ちゃんと繋がってたのか、というのがあって、だから私がずっとまだ今もテキスタイルとかファイバーを(専門として)やってるのって、親友のその言葉と鈴田先生の言葉が、結構大きいかなーと思います。
――以前、「交わるいと」展の時に少しだけお話しした時も、本当に布と糸がお好きでいらっしゃるんだな、と感じました。その愛情が根底にあるからこういう展覧会ができる人なのだなと思ったことをとても印象深く覚えています。竹口さんの根底にあるのがお二人の言葉なんですね。
●布への偏愛
もちろん、もっとその子供時代まで辿っていけば、なんかよくあるじゃないですか、子供時代の体験とか境遇を、事後的になんかええ感じに捏造する、って。
ということで言えば、うちの母方の家は、友禅染めの下絵を染める前に糊置きをする作業をずっとやっているお家やったんですよ。
だから、おじいちゃんおばあちゃんの家に遊びに行くと、お家の二階が作業場になってて、おじいちゃんと長男の人が伸子《※3》で張られた生地に糊置きをされていて、それが屋根に乾かしてある、というのを、子供の頃からずーっと見てたんですよね。
手伝おうとは全然思わなかったし、子供は触んな、ぐらいのことやったんですけど、それをずっと見ていたっていうのもなんかあるのかな、ぐらいのところはあるんですが。
あとは、私の母親の世代ってちょっとした洋服は自分で作ったりとか、仕立てに出すんです。
今から思えば繋がってるんだな、と思うのが、家にもたまに箪笥の底に母親が若い頃作った洋服の余り裂とか、コートとかあったりして、それを小学生の男の子が、お母ちゃんが作ったコートをこっそり、こっそりっていうか着ていて、なんかちょっときゃっきゃするとか、「お母ちゃん、この布もらっていい?」って言って、布をもらって、何を作るでもなく自分の洋服ダンスの底に隠しておくとか。
布とか服に対するある種の偏愛みたいなのは、子供の頃からそういえばあったな、っていうのはあるんですよ。
でも、と言っておしゃれに目覚めるとか、手芸をするとかっていうのは一切なく、本当に美術館でのたまたまの出会いというか、自分の専門を生かす場所が、福岡県美にはなかったので。で、工芸をやる人がその時いなかったので、(工芸と)マッチングしたっていうのはそこからですよね。
――専門ではないと思って入った美術館で、子供時代からの根っこがつながっていたものが花開いたみたいな形なんですね。
これは多分僕がもっと偉くなってから、どうや!みたいな感じで(笑)話すぐらいのヨタ話やと思うんですけどね。
でも、子供の頃から、そういう意味では布っていうのは、まあ興味ある…男の子なんですけどね。
だからお母ちゃんとかは結構嬉しかったと思うんですね。
自営業をやっていた家なので私が子供の頃は本当に忙しくて、おしゃれがどうとか言ってる場合じゃなかったから。そんな中で自分の興味関心に繋がるようなことを息子が言ってくれるっていうのは、まあ嬉しかったろうなと思うんですけどね。
ごめんなさい、久留米絣に持っていきましょうか。
●久留米絣/絣を定義するなら
――では、いきなり絣の話なのですが、私は久留米の出身なので、絣といえば久留米絣だったんですね、子供の頃から。
で、絣というのは糸を括って染めることで柄を作り、ほどいて織るものだという風に、単純に理解していたんですけれども、この仕事で絣を少しずつ調べていったり現場に行って見せていただいてる中で、括って染めることだけが絣ではなくて、捺染だったり型染めだったり、いろんなやり方で絣が作れるっていうことにやっと理解が行きつきまして。
竹口さんは絣というものをどういうふうに定義なさいますか。
難しい質問ですねー。
でも逆にちょっと教えていただきたいんだけど、例えば捺染とかで作っている絣っていうのは、昔からずっとそういう風に作っていたものなんですか
――うーん、そうですね、おそらく昔からではないところの方が多いのではないかな、というぐらいの感じではありますが…。
歴史的な検証とか専門的な知識というのは、すいません、私は本当にないんですけど、例えば、久留米絣なり絣をどう定義するかっていうのは歴史的な原点に帰るしかできないところもありますし。
その中で「久留米絣って何ですか」って言われると、やっぱり僕はもともと久留米絣との出会いというか、工芸との出会いが福岡県立美術館で、展覧会をやっていく中で、ということになるので、例えば(森山絣工房の)森山虎雄さんや哲浩さん、(藍生庵の)松枝哲也さんや小夜子さん(といった)伝統工芸として久留米絣をどうやって先につないでいくか、っていうことをされていた人たちから色々教わったりするので、やっぱり木綿だったり括りだったり、藍だったりになっちゃうんですよね。
――そうですね、久留米絣は私もそうだと思います。
あ、すいません、どちらかというと絣全般?
――そうなんです、絣全体を見たときにそれってどういうものだっていう風に言ったらいいのかなっていう風に思いまして。
うーん、でもそうですね、ベースに括りがあるんじゃないのか、と僕は漠然と思っていたんですけど。
――私も基本的にはそうだと思うんですが、国内はちょっとはっきり言えないんですが、海外の絣だと最初から捺染のところもあるのではないのかなと。
(絣を作るときに)図案から糸に柄を墨付けしますよね。
海外だと糸束を布幅の枠などに柄が分かる状態で張って墨付けをして括る、っていう場面をよく見るんですが、そのやり方だとそのまま色を入れちゃえばいいじゃない、っていうことになって摺込み捺染については割と自然に発生しそうだなと。
久留米絣も藍で染めていた頃の白絣、昔の書生絣は部分的に染めてたんだよ、という話も聞いたことがありますので、もしかすると墨付けの延長としての摺込みっていうのは割と考えやすいことなのかもしれないな、という風にも思いました。
国内にも新潟など摺込みが主流の産地があるので、私自身は(絣の定義を)〈糸に柄を染めてから織る織物〉ということなのかな、と思ってるんですけど。
そうですよね、そうなりますよね。なるほど。
――私のこの解釈で正しいのか分からないんですが、絣ってこういうものなんです、って話す時にどう説明したらいいのかな、っていうのを迷っていたこともあってお聞きしてみたかったんです。
●〈絣足〉に見る感性
たしかにね、うん。絣って言うた時に〈かすれる〉っていうのも意味的に重なってるんですか?
――そのようです。そこ(*かすれること)から来た名前だという説もあるようです。
それもお聞きしたかったことのひとつなんですけど、(絣は)図案通りには絶対に出来上がらないですよね。
染めの段階でも織りの段階でも〈ずれ〉ができて、でもその〈ずれ〉に〈絣足〉って名前を付けてむしろ愛して織ってきたっていうこと、それが今まで続いてるっていうこともすごく面白いな、と私は思っておりまして。
そうですよねえ。
例えばね、曲線を出すっていうのはめちゃめちゃ難しいわけですけれども、かつては綺麗に出すことができる人達がいて、それがいわゆる超絶技巧的に評価され、価値付けられることもあったと思うんです。けれども、一方でやっぱり絣足っていう、そういう整っていないところとか、ついはみ出しちゃったとか、っていうのを愛でると言うか。
絣とかイカットっていうのは、もちろん日本だけのものではないわけですけれども、そこに〈絣足〉という名前をつけてしまうのは、僕は日本人というか、日本の感受性のかわいいところだなって(笑)思ってるんですよね。
ノイズというか、そういったものを愛でたりとか、許容したりとか、そこを可愛がる、本来は排除すべき部分だったりするんだけれども、そこに愛着を持つっていうのは、多分ずっと昔から日本人とか日本の文化がやってきたことだと思うので。
――そうですよね、確かに。
陶芸や茶道具の世界でも、歪みだったり釉薬の揺れだったりを愛してきたりとか、宋胡禄《※4》みたいな、作られた土地ではそんなに価値が高くない、精巧でないものをむしろ愛でてきたみたいな感覚的な部分は(日本の文化の中に)あると思いますね。
侘び寂び、とか言われるとちょっと違うんだろうな、と思うんですけどね。
でも日本人っていうのは〈四十八茶百鼠〉というように、非常に細かい(色彩の)諧調を見分ける目を持ち、言葉を与え、それを愛でる嗜好を持っている。
その細やかさというか繊細さというのは、何だろうかねー、絣の〈ずれ〉とか〈揺れ〉とか〈ぶれ〉とかをいいなあ、と思う感性と繋がってると僕は思ってるんですけれどもね。
――そういった感性があるから、この図案通りに織れない織物がずっと作られてきた面はあるのではないかな、と思います。
(絣は)すごく手間のかかるやり方で柄を作ってますよね。
図案から布に至るまでに、今でも(久留米絣では)30工程って言われているんですけど、これだけ手間をかけて、特に綿絣に関しては普段着や野良着になるものを作ってきたっていうのは、本当にある種の愛だなって言う風に思ったりします。
そうですね。
もちろん藍(の成分)に実用的な、虫を寄せ付けないとか、耐久性が高まるとか、いろいろあったと思うんですけど。地産地消というのも。
けど、普段着としてゆくゆくはボロ雑巾にまでになってしまうようなものに、これだけのある種の創造性と言うか、クリエイティビティを注入していくというのは、これは日本だけじゃないと思うんですけども、人間って面白いな、と思いますし。昔あった黒電話の電話カバーを毛糸で作る〈おかんアート〉とかね。もちろんあれとはレベルは違うと思うんですけども。
――通底する何かが。
そう。やっぱりそこに創造性というものを人っていうのは入れたくなるんですよね。
●人はどうして柄を求めるのだろう
――なぜ(服に)柄が必要なのかということもよく考えるんですね。
着るという機能だけで考えたら無地でいいものに、どうしても人は柄を入れたくなる。
呪術的なことだったり、権威性だったり、(そもそも柄が必要とされた)理由はいくつかあると思うんですが。もちろん装飾性もなんですけど。
あると思うんですけど、本当に考えたら必要性がないものがほしい、っていうのはすごく面白いことだなと思うんです。
そうですね。装飾ってだから面白いですよね。
後はやっぱり表現したいって欲求が多かれ少なかれみんなあるんですよね。
それは今のSNS流行りとかも(同様で)、いろんな悪影響とかもあると思うんですけど。
例えばInstagramとかで、パシャっと撮って、外に出して〈いいね〉もらうって、まあ良し悪しは別として、何か表現をしたいという欲求をね、叶える部分もあったりするから。
人って結局そういう風に表現したがるんだな、っていうのは僕は面白いなって思うんですよね。
●井上伝からのインスパイア
――では、歴史のことを少し。
絣はインドが発祥の織物で、インドから東アジア、東アジアから東南アジアへと伝播していって、琉球に入って日本に入ってきた、っていうような流れがあるという風に私は理解しているんですが、絣の歴史としてはそんな感じに思っていても大丈夫なんでしょうか。
僕自身もそういう理解をしています。
ただ、久留米絣とか、日本の中の絣の産地っていうのは割と同時多発的にね、琉球から入ってきたのとは別に起こったっていうのも言われてるし、それこそ井上伝とかね、誰が創始者かっていうのもまたちょっとややこしい話ではあるんですけど。
――誰が創始者かっていうこと以上に、井上伝さんがお弟子さんをたくさん育てて、久留米絣を広めて定着させていったっていうことは大きな功績だなと思います。
そうですね。
しかも女性で、労働問題に踏み込める歴史ですよね。
で、井上伝さんが、絣っていうものを発見したエピソードっていうのも、どこまで検証されているのかっていうのは僕もよく分からないんですけれども、でも使い古された着物の柄がかすれてしまって、「これイケてる!」ってなって、「はじめからこれを柄にしたらかっこいいんちゃうか」って思ったっていう話は、僕はそこにこう、かなりインスパイアされる部分があって。
僕自身と久留米絣の繋がりで言えば、一番最初っていうのは久留米絣の展覧会《※5》をやったっていうのがあって。
その時にワークショップ《※6》で、古着のジーパンを集めて、っていうのやったんですよ。ジーパンからエコバッグを作ったり、旗を作る。
ジーパンを旗状の生地にまで解体して、それに絵を描いてもらって、ちっちゃい子供やったら描くの難しいから、ロ―ラーとかでぐりぐりーってして、で、それをぶわーってめっちゃ繋げて、展示室の天井からぶら下げて展示をして、最終的にはバスで久留米の山まで持ってきてはためかせよう、っていう。
ジーパンの藍色がインディゴで、久留米絣がタデ藍でしたよね。
同じブルーかもしらんけれども、その(ワークショップの)説明をしている時にいつも言っていたのが、久留米絣のワークショップやからジーパンを使うっていう、そこが実は本当に大切なところではなくて、井上伝がそういう風に使い古したかすれた柄を見てかっこいいな、っていう風に〈価値の転換〉を図ったっていうことが一番重要で。
古着のジーパンを、要するに捨てられるかも知らんかった、日常生活においては無用のものと思われていたものに別の価値を与えて作品化するという、そこの部分が美術館でやるべきワークショップだと思ってやったんだ、っていう話をしていたんです。
井上伝さんのエピソードにどこまで信憑性があるのか分かんないんですけれども、普段着やのにそこまで手間暇かけて、とか、本来やったら掠れてもっさいって思われるものを、「いやいや、かっこええやん」っていう別の価値を持ってくるっていうエピソード、歴史。僕にとっての久留米絣の魅力っていうのはそこにあるんだな、っていうのをその時に思ったんですよね。
――とても共感しますし、そこは今まであまり言語化されていない部分かなと思います。
美術の役割って何か、って思った時に、日常の生活、(つまり)実用性を重んじる、効率性を重んじる暮らしとは別の価値体系を持ってくる、っていうことだと思いますから。
非常にニッチな部分かもしれないけど、久留米絣の本質が何かっていうのとはちょっと違うかもしれないけれども、僕にはその意味で美術館で(久留米絣の展覧会を)やるっていうことの支えになったんですよね。そのエピソードっていうのは。
――なるほど。さっき言語化されていないってことを言いましたけど、なんとなくみんなが(久留米絣から)感じ取っている部分ですよね。
竹口さんのこれまでの展覧会のお話と同じで、みんながぼんやりと感じているものを「こうだよ」ってすくいあげて見せる手法が本当に竹口さんらしいな、って思いますし、そういう観点は伝統工芸っていう切り口だけだと出てきにくいものでもありますよね。
そうですね。口八丁手八丁の部分があるから(笑)。
●素材そのものへの愛着
――先ほどのお話のような久留米絣における価値の転換という部分はもちろんとして、竹口さんにとっての布としての久留米絣の魅力は?
やっぱり本当にね、七面倒くさいことしてる訳じゃないですか。伝統工芸ってどれも似たようなところはあるんですけど、その中でも久留米絣っていうのは作り方に制約が非常に大きいと思うんですよね。限定されている。
それとは違う作り方をしてもいいんだけれども、でもその制約の中からどういった物が出来るのか、チャレンジングな部分も非常に大きいと思うんですよ。
枠があるからこそ様々な創作もできる、っていう言い方もできると思うので、そこが一つは大きいし、あとは素材への愛情、例えば木綿に対する愛情であるとか、藍に対する愛情であるとかっていう、素材との関わりっていう意味では久留米絣っていうのは、本当に他の織物・染物に比べても抜きん出てる気はするんですよね。
例えば、植物染めももちろんそうなんですけれども、でも植物染めっていうのは微妙な色合いもさることながら、ある種の概念というか、自然に生えている植物を煮出したりしつつ染料を作るという、〈行為としての尊さ〉というものがやっぱり大きいと思うんですよね。
――実際に出来上がってくるものに付加されている部分ということですか?
そうそう、そうですね。
でも久留米絣っていうのは本当にこう、素材そのものへの愛着(がある)。「木綿ってほんまかわいい、潔いやろう」とか、「藍ってほんま可愛いやろう」って。もちろんみんながみんなじゃないと思うんですれども。
表現をする上では非常に制約があったり、工程も面倒くさかっても、それを手放さずに、面倒くさいから可愛いんだっていうか、手間をかければかけるほどものは応えてくれるんだって言う、子どもを育てるみたいな部分(の魅力)っていうのは、僕自身は非常には大きいかな、久留米絣を見る時に。
――そこに私は素材にプラスして平織りへの愛情も入れたいなと思うんですけど。平織りも単純なシンプルな形の中に何を生かすのかっていうことですよね。
ああ、そうですねえ。
――他の産地に行って、藍の久留米絣に与えている影響の大きさっていうのを実は感じていまして。
実際に今でも久留米絣に藍染めが使われているということはもちろん、藍染めからスタートした生地だっていうことが、化学染料が主流の産業的な絣にも柄ゆきや色や質感というところで影響しているんですよね。
機械織りの久留米絣の中にも、藍染めの歴史が実はまだいるんだなっていうことを、他の地域の先染めの織物との色や柄の違いから感じることがあります。
なるほどねー。
●久留米絣のこれから
――伝統工芸ではどこの産地も人が欠けていっている、技術がなくなり始めている、高齢化している、っていう話は必ず出てくるんですね。
で、この筑後産地ももちろん同じ悩みがあるんですけど、その中でこの先の久留米絣をどう考えていったらいいんだろうと。
例えば伝統工芸として、重要無形文化財として江戸時代のままの作り方の久留米絣が作られている、それを守っていくことの意味や価値はすごくよくわかるのですが、それだけが久留米絣かというと、そういうわけではないですよね。
じゃあ、この織物を続けていく、残していくってどういうことなんだろうなって。
変わっていけばいいのか、新しい素材を入れていけばいいのか、新しいデザインを入れていけばいいのか、それとも頑なに昔のままであった方がいいのか。
難しいですよね。
――久留米絣のこととしてというよりは、工芸の在り様みたいなことなのかもしれないんですけど。すみません、答えの出ない質問をしている自覚はあるんですが。
殖産産業としての工芸はまた結構見直されている部分もありますし、文化庁が京都に移転して、国立工芸館も金沢に行って、いろんな形で(変化がある)。
例えば、美術館業界だったら伝統的な工芸のあり方と同時に現代的なそれをアピールして海外に持っていく。それが、ぶっちゃけて言えばお金儲けになるかどうか、ということで言えば、それぞれの地場産業が抱えてる悩みっていうのは本当に大きいと思うんですよね。
僕自身はやっぱり作り手の人たちを応援したいし、本当に無責任なお願いですけど、みんな頑張って作って!とかって思っちゃうんです。
ただ、なんで久留米絣を作るかって考えた時に、どう頑張ってもあれこれのファストファッションが常態化している中で、ま、お金儲けにはほぼならないと思うんですよね。
とはいえ、ちょっとこれも答えがないところではあるんですけれども、伝統工芸というものをずっとやり続けていくためには、材料もそうですし、例えば括りのためのアラソウ《※7》ももうほとんど作ってるところがないとか聞きますし、そういうものがなかったらもう本当に伝統的な久留米絣は作れなくなる訳で。
で、何でアラソウが無くなったかって言えば、お金儲けができなくなるから、みんなが買ってくれないからで、それは致し方ないところがあるのかな、と思うんですよね。
だから難しいんだけれども、商売、お金儲けをするにしても、マイクロツーリズムじゃないけれども、細く長く作っていく方法っていうものを、工芸だけじゃなくて考えないといけない時期が来ていると思います。
これは本藍(での例)になってしまうので限られるかもしれないんですけど、生き物、例えば発酵っていうものに対する興味も、コロナも相俟ってどんどん高まっているんですよね。
僕、とある学会誌に短い文章を書いたんですけど、藍と関わりながら藍染めによって作品を作ってる、「交わるいと」とかでも紹介した福本潮子さんの展示と、福岡の現代美術のアーティストの草野貴世さん、その草野さんが最近、生前の松枝さんにもいろいろ教わって藍を自分の作品作りの素材として取り込んで制作をされてるんですよ。
で、そこで書いたのは、やっぱり植物染料ももちろん生き物から命を貰う。それは植物を殺すことでもあるということを自覚してやらなきゃいけないと言われることもあるけども、その中でも藍っていうのは、藍と(作り手と)のコミュニケーション(がある)。
蒅《※8》を作ってそこから藍を発酵させるという、ある種の歴史と関わるっていうこともあるし、藍という植物、生命と関わるっていうこともあるし、月齢を取り入れて(制作を)されている所もありますし、目に見えない様々な生命とか時間と関わりながら藍と向き合っている。
それ(※藍との関わり方)は、伝統工芸とか工芸の世界では全然当たり前なんですけど、例えば草野貴世さんが現代美術のフィールドの中で「藍に手を染めて…」っていう藍染めのワークショップをしたら、たくさんの参加者が集まったとか。
工芸の世界ではない、別の価値体系を持った現代美術の中で藍を紹介すると全然違う人たちがやってきて、真っ青に染まった手を眺めて生々とされる。工芸のフィールドからしてみれば、もはや珍しくもないあたり前のことなんだけど、でもそこで心動かされる人たちが開発・開拓されるわけですよ。
だからある種の藍の魅力であったりとか、久留米絣の魅力を、違う…ああそうか、僕の仕事ですね(笑)…物語化していったりとか、価値の体系化をするとかいうことが少し先につなげていく可能性になるんじゃないのかなと思うんですよね。
――それは是非やっていただきたいです。
コロナで色々しんどくはなってるんですけれども、でも何か大きくぶち上げて金儲けしてやっていく、っていうのではなくて、小さくいかにサスティナブルにやっていくか、っていうことが重要であるということ。
とは言えなかなか抜けられないんですけどね、消費社会からは。
――おっしゃる通りだなと思いますし、お金が大きく儲からないからこそ、伝統工芸はそういうサスティナブルなやり方で繋いでいくことができる可能性を持っているんじゃないかな、って思ったりしますね。
儲からないことで消えてしまう危険性がありつつも、一過性のブームではない形で続けていくことができるのではと。
私も織元さんの藍染体験でのお客様のビビットな反応を見ていて、藍には人の価値観を変えてしまうぐらいの力があるんだ、と気づいた経験があります。
●若き担い手のために
あとはビニールひもでは絶対出せないアラソウの魅力であるとか、やりやすさとかあると思うんですけど、でもそこにこだわらず変えられるものは変えたらいいし、実は変えた方がやりやすいというのものあるじゃないですか。
そこ(*昔ながらの手法)へのある種のこだわりっていうものはちょっとずつ捨てる、っていう言い方は変ですけど、変更していくんじゃないのかなと思うんですよ。
そこのバランスがね、難しいですね。
――どこが本当に残すべきことなのかっていうのは、作り手はもちろんずっと考えてらっしゃると思いますけど、いろんな人がいろんな形で関わって考え続けていくしかないのかなって。愚直なやり方ですけど。
まあ例えば、もっと現代のものを使ったらやりやすいのに、伝統の(指定)要件だからこの昔ながらのやりにくい方法をやってるっていうふうに考えがちだけど、でもそのやり方が何で使われるようなったかって言ったら、その時代その環境ではそれがやりやすかったからですよね。
制限をかけるためにやりにくい方法をやっていた訳ではなくて、その(当時の)最新の方法だった訳なので。それを何でもかんでも今のデジタルにすげ替えればいいのかとか、ビニールにすればいいのかっていうのは、ちょっとにわかには分かりませんけれども、こだわりどころが違うよな、って思いますし。
――新しい技術の導入への賛否っていうのはもちろんあるものだと思いますが、じゃあ今の最先端で何ができるのかっていうのは検討して良いし、そういう検討がないと続かない部分っていうのはあるんですよね、きっと。
そうですよね。
ちょっともう名前のセンスが古いんですけど伝統工芸βとかね(笑)。いろんなレイヤーで作っちゃってもいいんでしょうけど。
博多織だったらデベロップメントカレッジ《※9》がありますし、北九州の小倉縞、築城(則子)先生のとこだったら、若い人たちが何名も育っているし。
久留米絣も、これから活躍しようとしている若い人たちがやりやすい環境になればいいな、と思うんですけどね。
――実は近年、二十代から三十代の若手の人たちが各工房で手織り藍染めの久留米絣を担い始めている、っていう状況があって、それは一つ本当に希望的な部分だなと思っています。
一昔前だったら、強制的に継がなきゃいけない、っていう状況かもしれないですけどね。
でも普通やったら嫌って言ってもおかしくないようなものだと思うんですけど、今そうやって三十代だったり二十代だったり、大学を出て会社に勤めたり勤めなかったりで、また手での作業に関わろうとしてくれてるっていうのは、やっぱり時代の考え方とか流れとかもあると思うんですよね。
楽して金儲けて、っていうのではない、手を使って作業することの大切さ。
彼らの作りやすさ、作って行きやすさ、生きやすさを用意するというか、作っていかなきゃいけないと思いますし、それは例えば〈配り手〉、つまりお店で扱うとかもそうですし、ここ(*Kibiru)みたいに作り手でもない配り手でもない人たちと場所が彼らを支えることも、やっぱり非常に重要だなと思うんですよね。
陶芸の分野、あるいはうつわにおいては新旧の〈配り手〉がたくさんいらっしゃって、作り手も育てられていますが、染織ってなかなかそういうのがないですよね、難しくて。
――やっぱり、伝統工芸になると(染織は)呉服としての流通が中心になりますし。
今までとは違う用途、違う見方で染織を提示できる人たちが、〈配り手〉として、または美術館なども含めて色んな所にいるという状況を、作り手を増やすっていうことと並行して進めていくしかないのかもしれないですね。
儲けるためではなくて作っていくために、全然違う業種とコラボレーションしたりとか、僕の展覧会もその一つですけれども、そこを意識的にやりやすくしてあげる年長者が必要じゃないのかな、と思いますね。