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素晴らしき哉、縄文!

以前観た映画に「ライフ・イズ・ビューティフル」という作品があった。

ユダヤ人である主人公は家族と共にナチスの収容所に入れられるが、母と別れた幼い息子が不安がらないように、極限下の収容所でも子供のために懸命に明るく振る舞う。 そういう筋立てだった。

そして自分が銃殺されるときにも、息子をかばい、息子を助けた。

悲惨な話であるはずなのに、どこかで、生きることの喜びさえ感じさせる、そんな作品だった記憶がある。

邦題にすれば「人生は美しい」となるのだろうが、 何より、そうはっきりと言い切っているのが、心地よい。

それ以前に観た映画。

ジェームス・スチュアート主演の「素晴らしき哉、人生 !」

こうなると、もう、そのものズバリだ。

あらすじはこうだった。

何につけても、生きる上で困難に見舞われる主人公だが、それに臆することなく立ち向かう。

自分の望みとは違う人生を生きてはいるが、彼は与えられた環境で、周囲の人々に助けられながら、また、それに感謝しながら、今を生きる・・・。

彼は不慮の事件で絶望し、自死しようとするが、天使に助けられ、自分のいない世界を体験することになる。

そして、生きていくということは、どんな人生であれ、誰かの人生に何かしらの影響を与えている、と学ぶ。そしてさらにこう感じるのだ。

素晴らしき哉、人生!

はっきりと言い切れるほどに、ね。

「勿論、色々とあるけどさ」と心では小さく囁いてはいるだろうけれど・・・。

先の衆院選でのテレビ局のアンケートを聞いて驚いたことがある。

現代の若者たちの6割以上が未来に絶望しているのだという。

一見すると、世の中には物が溢れ、何不自由のない暮らしをしているように思える現代の日本社会だが、多くの人が何か満たされないものを胸に抱えながら、日々の生活に追われているのかもしれない。

一体いつ頃から、私たち日本人は自分たちが幸せではないと思うようになったのだろうか?

時々、国別の幸福度ランキングなるものが発表されるが、我が国は先進国と言われているはずなのに、おしなべて順位は低い。
そんなものに一概に右往左往する必要はないのだが、そりゃあ、幸せであるに越したことはない。


これもまた昔の映画で、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」というのがあったが、「タイムマシンがあったらどの時代に行きたい?」って訊かれたら、私は即座に「縄文時代!」と応える。その後に「素晴らしき哉、縄文!」
と付け加えることも忘れない。

もし人がその言葉通り、「歴史に学ぶ」ということがあるのなら、私は縄文の暮らしや思考にこそ、今の時代の人間たちが参考とするヒントがあると本気で信じている。




私が今住む八ヶ岳の周辺は、縄文銀座と呼ばれるくらい縄文時代の遺物や遺構が多い。
収穫の時期である秋には各地でそれにちなんだ催し物が開催され、町おこし的なイベントも行われる。

「縄文人たちも食べていた栗やクルミを使ったケーキやタルトです」、なんてキャッチコピーが出店の前に掲げられていたりすると、「また縄文か、ここの地域は他の時代はなかったんかい」とツッコミながらも、その根強い魅力を再認識したりもする。

しかし、一体全体、そんなものとはかけ離れた忙しい世間では、縄文時代にどんなイメージを持っているのだろうか?

「定住もせず、移動を繰り返し、シカやイノシシの肉、どんぐりやクルミなどの木の実、貝などの食料探しに明け暮れた、何の人生の目的もない、味気ない野蛮な時代?」
「奇妙な形をした土偶や使い勝手の悪そうな火焔土器を見ていたら、なんか文明とはほど遠い、得体のしれぬもんだ・・・」

なんて、そう考えているのなら、大いなる間違いだ・・・。

世紀末的な様相を呈している現代社会だからこそ、いっそう縄文時代に学ぶべきものがあると、私は思っている。


そう考えるのは無論私ばかりではなく、縄文にハマっている人々は結構多い。

小林達雄さんの著作なんかを読んでいると、その縄文愛が伝わってくるし、縄文に関するドキュメンタリー映像を見ていると、まさに私なんか比較にならないくらい、ハマっている人がいて、心強い。



今の時代行きつくところまで行きついた感があって、ようやく、持続可能な社会とか地球環境に配慮してSDGsとか、語られ始めてきたけれど、残念ながら、遅きに失す感じだ。
縄文時代にはそんな事はなから実践してたんだから・・・。それも生活の中で普通にね。

特別な人をフューチャーするまでもなく、私の知人にも、縄文に憑かれた人はたくさんいて、その中でもTさんは最たるものだ。

もう数十年前にその魅力にハマったTさんは考古館に通いつめ、学芸員から図面を貰って、縄文人が暮らしたという竪穴式住居を家の敷地に作った。
おまけに土器まで作って家族まで巻き込んで縄文の暮らしをしばらく体験していたというから、まさに極みだ。


じゃあ具体的に縄文の何がいいのと訊かれたら、それはそれで、私があれこれ言うよりも、皆さんに個々に触れていただきたい。
調べてみれば、全国各地に縄文に関する施設はある筈なので・・・。

有史以来とか先史時代とかいう言葉があるように、縄文時代は文字がなかったために、例えば学校教育の歴史の授業でもなおざりにされがちだ。 

だけどその分、私たちの想像力をいたく刺戟する。

先述したけれど、縄文人たちは自然と共生し、調和する、いわゆるスローライフを実践していた。
そんな昔に、私たち日本人の祖先は、人間として、あるべき姿を見せてくれていた。
それが一万年も続いたんだよ。
すごくない?

その後に農業が始まって、弥生時代から文明とやらが進んでたった三千年しか経っていないのに、さてさて、文明とやらが果たして人間を本当に幸せにしたかは、また別の話だけれど・・・。





例えば、暗闇の中に、独り、立ち、ゆっくりと両手を伸ばし、動かしてみる。
と、私という存在の小ささがわかる筈だ。 
私の真に触れられる世界などわずかなものだ。

広大な宇宙からすれば、私の存在など、きっとそんなもんだ。


私が縄文人から学ぶ一つは、その謙虚さ、だ。

自分の周りにある、自分以外のものの全てに、いつも謙虚でありたい。
自分の小ささに気付いた時こそ、私という存在も輝いてくるに違いない。

もう一つは、今を生きる、ということだ。

言い尽くされた事かもしれないが、現代に生きる私たちは本気で、今を生きてるのだろうか?

縄文人たちには、きっと、明日への保証は何もなかった。
朝、目覚めた時には、まず、今、生きている喜びを噛み締めて、その日一日を懸命に生きたに違いない。

そりゃあ、人生に、夢や希望はあった方がいいけれど、極論すれば、仮にそんなものが無くったって、生きるんだ。
そうしていれば、そのうち自然と、本当に自分にあった夢や希望が生まれてくるに違いない。

人生には色々あることは解っている。

その上で、やっぱり、こう言ってみたい。

素晴らしき哉、縄文!


素晴らしき哉、人生!






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