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△教育の学びが整うまでは私たちは"実験台"ですか?
昨日は対話の先生塾にて、教育データ利活用ロードマップをみんなで見ていた時。
とある高校生からの言葉が頭から離れなかった。
「教育の学びが整うまでは私たちは実験台ですか?」
おぉふ…。
みぞおちにパンチを喰らったような問いだ。
たしかにそういう見方もある。実験台というと、「私たちで試してるんですか?」「今の私たちは犠牲になれって意味ですか?」という問いでもあると思う。
問いを生んだのはこのページかなぁ。
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まぁ、無理なく進めていくにはこのペースになるんだろうと思う。
でも、「GIGAスクールの時のように本気で頑張ったら大人たちもっとできるんじゃないの?私たちには最適な学びを提供するんじゃないの?」
その言葉を今、学びを受けている子からの厳しい指摘だとも感じます。
ただ、僕は実際にはそう思わなかったりします。
今日は学生たちに向けて、ちょっと話をしてみようかなと。
実験台じゃなくて、今できる最新の学び
実験台と思うか、最新の学びと思うか
まず、最初に伝えたいのは今できる最新の学びが学校に導入されていると思っています。
まぁ、人の技術や、志はあれど、今現在が今できる最高の学びの状態ってことです。(これは学校によって違いがあります。そこは大人頑張ろう)
最新の学びはエビデンスも十分ではありませんが、それでも10年前より随分良くなったと思います。
それは実験というのを繰り返して改善が行われたからです。
例えば今、完全に確立された学びだけをやりたいか?というと、それこそ本で、アナログで、出会った人の中で…になります。
でも、これからは世界の人口が少なくなり、グローバル化が進みます。だから、デジタルだし、これからはデジタルなしでは生きられない。
そして、僕らもゆとり世代と言われた世代です。
ゆとり世代は学力が低いと言われ、散々叩かれた世代でした。それこそ、その当時の大人の実験に付き合わされたかもしれない。
でも、今、時代を変えているのは『ゆとり』を受けた世代です。
もっと『人』を大切にしよう。学力ベースで生きていて本当に幸せになるの?個人の幸福から他人の幸福に繋がるかも…こういう考え方はゆとり教育を受けた世代からの声が大きいのです。
そして、今、社会を「このままじゃダメだ!」って自分たちで変えていっています。
もちろん、同じゆとり世代でも何もしない人もいます。でも何かしている人もいます。ゆとり世代以外の人も何かやっています。
そして、今の最新の教育を受けて子どもたちが「いや、他にもっと良いところあるじゃん?」とか「もっとこうしたらええじゃん?」と言うのはできます。
それは今の学びを受けたから湧いた感情でもあります。
受けなければ「全然まだまだじゃん」という感情すら湧かない。
まずはその自分の中でわき起こった気持ちを大切にしてほしいと思うのです。
何ができるか考える、どうしてそうなっているか考える
そして、「まだまだだ」「このままじゃアカン」と感じる要因がきっとあります。
それを学生のうちに探って欲しいなって思います。
なぜ学生のうちが良いかというと、無垢な状態で、人の利益・不利益を度外視して、この話題に切り込んでいけるからです。
大人になると、なかなかこの社会課題に切り込んでいくことが難しくなりますが、「若い人」っていうのはそれだけで人から受け入れられやすいのです。
※そういう見方で見ちゃいけないというのもありますけどw それでも若い人に知ってもらうことは嬉しいのです。
そして、そうなっている背景を知ることは、そのまま社会課題を知ることに繋がります。
それは将来、どうやって自分は生きていこうか?ってことにも繋がってくると思います。
だからって何やっても良いわけではない。大人は今こそ姿を見せよう
ここからは学生じゃなくて、それを育てる立場にある大人に向けて書きます。
手段を楽しむのではなく、自分の人生楽しもう
今のこの教育DXが進むと一体どこに行き着くんだ?って話になり、
「個別最適化が進むと、教師の魅力がなくなる。楽しさが消える。」
そういう見方もあるなと思います。でも、教師の魅力って教えることだけでしょうか?成長を見守るのは楽しくないのでしょうか?
たぶん、教えるのが好きな人もいるし、嫌いな人もいる。見守るのが楽しい人がいる、楽しくない人もいる。個人の価値観なんだと思います。
一つ言えるのは何をやるかだけで考えたら、手段が楽しいかどうかになってしまいがちです。
でも、本当は『自分がどう生きたいか?』だと思うんです。
仕事は生き方です。
どんな風に生きていきたいか?にこだわると、手段なんか気にならなくなります。教えたっていいし、見守ったって良い。
僕はどちらでも楽しい。
どんな仕事でも自分がやると楽しくなる!くらいにまで行ったら、どんな人生でも楽しくなるなって思うし、そういう人でいっぱいの世の中になってほしいと個人的には感じます。
いつでもどこでも誰でも学べるような社会になる
これから「いつでもどこでも誰でも」が加速すると思います。
これのことをユビキタスと良い、ITや、コンピュータを作った際に言われた言葉です。情報技術を専門で学んできた人であれば、基礎として大体知っている言葉です。
そしてそれが教育に降りてきただけ。
ユビキタス社会(ユビキタスしゃかい)とは「いつでも・どこでも・何でも・誰でも」がコンピュータネットワーク、インターネットを初めとしたネットワークにつながることにより、様々なサービスが提供され人々の生活をより豊かにする社会である。
「いつでも、どこでも」とはパソコンによってネットワークにつながるだけでなく、携帯情報端末をはじめ屋外や電車・自動車等、あらゆる時間・場所でネットワークにつながる事であり、「何でも、誰でも」とはパソコン同士だけでなく家電等のあらゆる物を含めて、物と物、人と物、人と人がつながることである
ホームスクーリングが基本になる?そうなるでしょう。だって、今の大人がスタバや、自宅で仕事をするようになり、場所や、時間にとらわれない働き方をしているからです。
そもそも10〜17時で働くという概念すら、もはや古いと思っている人は結構出始めています。
僕も基本的に働いてるな〜って思っているのは、平日の午後1〜5時くらい。しかも、それも働くか働かないかも自由に選択できる。それ以外は遊びという名の活動をしています。
それだけでは社会はまだうまく回らないけど、そうやって活動している人がたくさん出てきたのです。
そうした時にそういう働き方、生き方に触れない教育は果たして良いのか?
Youtuberや、プロゲーマーを「あんなの職業じゃない」って一蹴してしまって良いのか?
先生(それ以外の大人も)がその世界を触れず、知らず、そもそも見ないで良いのか?
よく考えたいなって思います。
個別最適化で見るのはデータじゃない、人の心
これからデータがたくさん集まる時代になっていきます。求めるか求めないかではなく、そのほうが便利だからです。
大事なのはうまく波にのることです。
そして、個別最適化が進むとデータのみで子どもとやり取りすることも増えてくると思います。
どれだけ動画学習したかな?とか、自学自習でのテストの結果は…?みたいな。
でも、そこでデータに頼った学習になると、本当にできない子が見えづらくなってくる。
そして、人の心が見えなくなってくる。心の目で見る。
データを追うのではなく、その裏にある人の心を考える。
「最近元気かな?」
「そういえば最近話したのはいつだっけ?電話かけてみよう」
「最近、データが落ち込み気味だな。何かあったかな」
この人に対する気配り、心配りはコンピュータが最も苦手とする部分です。
これから虹彩認証なども入って、コンピュータは感情を読み取ることができると言いますが、まだまだ人間のほうが数万倍上です。
そこが人間にしかできないところであり、どんなにコンピュータが発達したってできないところだと思います。
それが教師の仕事になっていくんじゃないかなって思います。
昨日の最終結論
「赤い血が通った教育がしたい」
それはそういうことに繋がるのかなって思います。
そんなわけで、対話の先生塾ではこんな濃い対話をしています。
※僕も運営側としてちょっとだけお手伝いさせていただいています。
良い授業がしたい
もっと良い学校を作りたい!
教育界を学校から変えたい!
そんな風に思っている方はぜひご参加ください^_^
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