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目に見えないからこそ、辛さが伝わりにくい

「辛いのはみんな同じよ」「あなただけがしんどいんじゃない」「誰にだって出来ないことがあって当たり前」「わざわざ病院に行くことなの?」「全然辛そうに見えないよ」「皆しんどくても頑張って生きてるのよ」


こんな言葉を言われたことはありますか?

うつ病を抱えている人にとって、恐らく一度は言われるであろう言葉。

「辛いのはみんな一緒」

うつ病だけでなく、精神科に通う人達、精神疾患を患う人達にとっても、同じ経験があるんじゃないかなぁと思います。

私はこれらの言葉がずっと苦手でした。なんだか、無視されてるような、置いてけぼりにされてるような…自分の辛さの度合いを勝手に決めつけられてるような、そんな歯痒さ。

「精神」そして「心」というものは、身体と比べて目に見えるものではありません。

もし、転んで擦り傷を負ったら、すぐ目に見えて分かるでしょう。骨折しても、レントゲンで見ればすぐに骨が折れているのが分かります。

しかし、それが精神疾患となれば、どうでしょうか?

うつ病にしても、不安障害にしても、発達障害にしても…
精神疾患は目に見えづらいからこそ、その辛さが伝わりにくいことがあります。

きっと、症状の1個1個を挙げてみれば、誰にでも当てはまるものなのかもしれません。
例えば「気分がひどく落ち込む」、「無気力になる」、「人前だととても緊張する」、「言われたことをすぐ忘れる」、「会話が苦手で対人関係を上手く築けない」などなど…

これらだけ聞けば、精神疾患の当事者じゃなくても、どれか1つは当てはまる人は多いと思います。
実際に、ネットで調べても「これらに当てはまったらあなたは○○病!○○障害!」と、チェックリストなるものが多く掲載されています。

そのチェックリストの存在を否定したい訳ではありません。むしろ、自分のことを客観視するいいきっかけになると思います。

大事なのは、「その症状に当てはまるかどうか」では無い、ということ。
「その症状の頻度・濃度」、要するに「その症状に、どれだけ生きるうえで障害になっているか」だと思います。

例えば、私はうつ病で常に気分の落ち込みがあります。気分の落ち込みだけで言えば、誰にでもあることです。ですが訳もなく涙が出たり、ベッドから起き上がるのが苦痛であったり、人と関わったり外に出るのが億劫になって引きこもりになったり、死を考えるほど精神的に追い込んでしまうのが日常的にあったなら、それは「誰にでも当てはまる」ことなのでしょうか。

生きていく上で、「気分の落ち込み」が障害になってしまっていることが重要なのです。

発達障害も、不安障害も、誰にでも当てはまるものではありません。生きていく上でその人の「障害」になっているからこそ、障害という名前がついているのです。

もちろん人それぞれ個人差はあるでしょう。症状に当てはまっていたとしても、当人が「平気だ」と思えば、障害だと思う必要はないでしょう。

人それぞれのキャパシティがあることを忘れてはいけないと思います。

もし、目の前で誰かが「お腹が痛くて辛いんだ」と訴えたらどうしますか?お腹の痛さは容易に想像できます。そんな中で「そんなのは誰にでもあるんだから大丈夫よ」「お腹が痛くて辛いのは当たり前。誰だってそうだよ」とは、言えません。

精神疾患の症状の辛さを説明する時、それがどうしてもまかり通ってしまうことが、どうしようもなく歯がゆいのです。

「心」は目に見えない。だからこそ自分の感覚や尺度で、測ってしまうものなんだと思います。仕方ないことなのかもしれないし、実際当事者にならないと分からないものです。

「辛いのはみんな一緒」

良くも悪くも、その人の辛さを無かったことにする、魔法にも呪いにもなれる言葉。

精神の病気・障害を持つ人にとって、まるで自分の感じた辛さが透明なもののように扱われる悲しさ。

それを幾度となく味わってきたからこそ、私は誰かの精神的な悲鳴を、「そんなのは当たり前だ」と決めつけることはしたくないと思っています。

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