最近読んだ本について

銀河の片隅で科学夜話/全卓樹が素晴らしかった。科学読みものには稀有なことに、読者と対等な目線で科学の物語を聞かせてくれる。科学は事実的な知を探求する学問にもかかわらず、人間の知が及ばない神秘まで連れていってくれる不思議な魅力を持っていたことを思い出す。

私が科学に興味を持ったきっかけは、いまや正確には覚えていない。しかし、それは科学的な事実を単に知ったからではないだろうし、ましてや教養主義的な知識の押し付けをされたからでもない。科学の魅力は分からないことと、分かることの領界にあるはずだった。それを語ろうとすれば、半分は事実を、もう半分は物語を語ることになる。

科学はどれだけ物語が必要なのだろう。それは、科学者の信条を揺るがす問題だが、他方で科学の面白さを伝えるうえでは不可欠なことだ。実際に科学者が面白いと思っているところは、事実と神秘のすきまにある。しかし、我々が公に何かを語るとき、神秘には留保をつけなければならないし、物語を作りすぎるわけにもいかない。このジレンマに、我々はどう折り合いをつけていけばいいのだろう。

ここに収録されたお話はどれも魅力的だが、例えば「第15夜:言葉と世界の見え方」は将来を考えるうえで面白い話題だ。この章は、言葉と思考の関係についての研究を紹介するものである。

ここではまず、マヤ語にあり、英語にはないという「助数詞」について語られる。「助数詞」とは、数を表す語の後ろに付けてどのような事物の数量であるかを表す語のことだ(一匹、一体、一個など)。この助数詞のおかげで、"マヤ語ではものを指す名詞が「形」の拘束から解放される (Kindle Locations 1061-1062)"。マヤ語は「物」を現す名詞と、その「形」を現す助数詞の組み合わせで構成される。例えば、ろうそく(物)という単語と、それが溶けているのか棒状なのか溶けているものなのか(形)を表す助数詞が別々になっている。これによる認知の違いを端的に示す実験についての記述を以下に引用する。

 西暦1992年、ルーシー博士は次のような実験を行なった。被験者はまず手に乗るほどの大きさの「 厚紙の小箱」を見せられる。ついで同じくらいの 大きさの「プラスティックの小箱」と、「平たい厚紙」を見せられて、最初のものと似たほうを選べと告げられる。アメリカ人の被験者はほぼ常にプラスティックの箱を選び、マヤ人はかなりの割合で平たい厚紙を選んだ。
 これは最初に見たものを、英語話者は形で判断して「小箱」と認識し、マヤ語話者は素材で判断して「厚紙」と認識したからだ、と考えることができる。名詞が形の情報を含む英語、含まないマヤ語という言語の構造が、物体の認知に影響を及ぼしていることが、この実験ではじめて明確に証明された。 (Kindle Locations 1065-1072). 朝日出版社. Kindle Edition.

この章では、上記のようないくつかの研究結果を出発点にして、言語の種類や格変化の違いが我々の認知に与える影響について語られる。考え方のクセが言語によって異なるかもしれない、というわけだ。

それでは、はるか遠い未来、もしすべての科学が英語のみによって行われるようになったらどうなるだろう。それは、日本語で行われたり、中国語で行われたり、かつてのようにドイツ語で行われていたものとは違う発展を辿るのだろうか。既述のように、日本語をはじめとしたそれぞれの言語で"思考のクセ"に違いが生じるのであれば、言語の統一は科学的思考の多様性を狭めてしまうのかもしれない(※1)。

では、科学を記載する文字についてはどうだろう。フーコーは言葉と物で、表意文字(意味を表す文字)よりも表音文字(音を表す文字)を持つ民族のほうが文化をより発展できるのではないかと書いている。

じじつ、アルファベットを持つ場合、人間の歴史は一変する。人間は観念ではなく音を空間に書きうつすのであって、種々の音から共通の要素を抽出し、組み合わせれば可能なかぎりのすべての音節と語が形成されるような、少数の決まった記号を作り出すのだ。 (p. 147)
(アルファベットは)いくつかのきまった文字記号によって新たな語すべてを分解できるし、発見がおこわれるたびに、忘れられるおそれなくそれをすぐに伝達できるだろう。さらに、おなじアルファベットを用いてさまざまな言語を表記し、そうやってある民族のいだく観念を他の民族に伝えることもできるに違いない。(p. 147)

表音文字は、必要な音節を組み合わせるだけで容易に新しい言葉を文字として記述することができる。そのため、他国の言葉や概念もすぐに取り込むことができるし、またすぐに新しい語を伝達することもできるということだ。しかし、表意文字は、語の発音とは無関係にその意味を現す文字である。そのため、その記号のうえに何らかの発見をする余裕があっても、それを改変して伝達することが難しい。フーコーはこのように断言する。

ある民族が象形文字しかもたぬ場合、その民族の政治は、歴史を拒否するもの、少なくとも過去の純然たる保存でないようなすべての歴史を拒否するものとなるに違いない。 (p. 146)

しかし、試しにいくつかの中国語版の研究資料を読んでも、遺伝子名以外はほとんどが中国語表記であり、うまく自国語に変換しているように思える。このとき、漢字の発音を用いて表音的に記載しているのだろうか、それとも表意的に変換しているのだろうか。ともかく、表意文字のみしかない中国語でも、科学の世界ではうまくやっているようである。ちなみに、日本語については科学について書き記すことがさらに容易になる。カタカナを使えばよいからだ。日本語は、表意文字(漢字)と表音文字(ひらがな、カタカナ)が組み合わさった奇妙な言語なのだった。このような文字の違いは、科学の記述にどれほど影響を与えるのだろう。

ともかく、少なくともまだ数十年は英語による科学文明が続いていくだろう。それは私にとって良くもあり、悪くもある。印象に残っているのは、数年前のイタリア、私が初めて国際学会で口頭発表をするときのことだ。私が空き時間に観光もせず、ひたすら英語での発表練習と質疑応答の対策をしているさまをみて、上司が「英語圏に生まれていたら、お互いこんな苦労はせずに済んだのにね」と言ったのだった。そう、自分が英語圏に生まれていたら、と何度出自を呪ったか。

しかし、今やこうしてアメリカで科学を学ぶ事態に陥っている。そして、毎日自分の英語を嫌悪するハメになったのだ。そういう嫌悪に対して、”私は日本語でも、英語でも科学について議論することができるのだ”と考えることで自己弁護をしなければならない。英語話者に勝るところが、その一点にしかないわけだから。

私自身、英語を完璧に話してさもアメリカ人のように振る舞うことで、日本出身のアイデンティティを放棄したいわけではない。かといって、英語を使ってコミュニケーションができないわけでもない。英語と日本語の領界に身を置いて、あいまいな言語構造を保つことが私のアイデンティティなのだと、負け惜しみで主張する始末である。

いつまでも英語で苦労し続けている私を、世界に散らばる英語が苦手な日本人研究者たちを、果たして自動翻訳の発展は救ってくれるのだろうか。そう考えるとき、翻訳というのがどれだけ正確に原語の意味を拾い上げることができるのか、という問題もあわせて考えてしまう。英語と日本語には大きな隔たりがあり、いくら翻訳が完璧でも原文の意味をすべて伝えるのは難しいだろう。

そうであれば、自動翻訳がいくら完璧とはいえ、やはり統一言語を用いてコミュニケーションするのが最良の選択ではないのだろうか。科学者同士のコミュニケーションは、可能な限り正確に実施されなければならない。しかしここで、ジャック・デリダ ―― 死後の生を与える/宮﨑裕助での序論の記述が思い出される。翻訳というのは、原作の意味を損ねることによってこそ、新たな生を享受できるというのである。

そもそもひとつの作品の生とはなんだろうか。作品の生はそれ自体として存在するというより、翻訳という、原作をそのままにはしない毀損行為によって、その純粋無垢を汚す一種の暴力によって、要するに原作の死後 ー原作者の死後に限らず作品が同時代に顧みられない場合も含むー にはじめて、当の作品はかえってそれにふさわしい生を享受するということが生じるのである。 (p.10)

翻訳は、原語の一部を損ない、曲解する暴力性を秘めている。しかし、その暴力こそが、作品の解釈に新たな可能性を生んでいくのだとしたら。それは、言語による”思考のクセ”の問題と呼応しているようにも思えてくる。そもそも科学者は、数字やグラフ、画像という共通言語によって必要最低限の正確なコミュニケーションを行うことができる。であれば、その"数字やグラフを解釈するための言語"については、どれぐらい共通でなければならないのだろうか。

将来、とても正確な自動翻訳が世界中に普及し、世界が複数の言語を持ったままの状態で、再びバベルの塔が建設されたとき、科学はどのような世界線を持つのだろう。それは、今よりも豊穣な解釈が存在する科学世界になるのだろうか、あるいはその逆になるのか。

言葉は何を操作して、動かすのだろうかということだ。最後に、幻獣辞典/ホルヘ・ルイス・ボルヘスという本について考えてみる。これは、伝説などに登場する生き物をボルヘスなりにまとめたものだ。その中で私が特別好きなのは、ゴーレムについての記述である。あいにく幻獣辞典は実家にあるので、以下はWikipediaの「ゴーレム」の記述だ。

ラビ(律法学者)が断食や祈祷などの神聖な儀式を行った後、土をこねて人形を作る。呪文を唱え、「אמת」(emeth、真理、真実、英語ではtruthと翻訳される)という文字を書いた羊皮紙を人形の額に貼り付けることで完成する。ゴーレムを壊す時には、「אמת」(emeth)の「א」( e )の一文字を消し、「מת」(meth、死んだ、死、英語ではdeathと翻訳される)にすれば良いとされる。

ゴーレムは「אמת」(真理)という文字で生まれ、「א」を消されることによって死ぬ。しかし、ここで消されてしまう「א」についての面白い事実を見つけた。最近読んだエコラリアス/ダニエル・ヘラー=ローゼンという本に、ヘブライ語の「א」についての話が登場しているのだ。これによれば、ゴーレムの額の文字は、消される前から消えているのである。「א」はそもそも、発音できない文字なのだ。

ヘブライ語の文字、アレフ「א」が発音できないのは、その音が複雑すぎるからではなく、単純すぎるからだ。つまり、他のあらゆる文字と異なり、この文字はどんな音も表してはいないのだ。最初からずっとそうだったというわけではない。アレフは、そもそもは、声門閉鎖音を発生させる咽頭の動きを現していたと推測されている。 (p.21)

著者は、「א」が発音できないにもかかわらず、ユダヤ教の啓示全体をただ一つの文字に還元したものとして、文字の中でも特権的な地位を得ているという。

神の言葉の唯一の素材として、アレフ (א)は、言葉が出現する場所、かつ忘却そのものである場所を示している。音を持たないことで、この文字は、アルファベット全体としての忘却を見守っているのだ。 (p.29)

ゴーレムは、神の言葉を額から消し去ることによって死を迎える。そして、消された文字は、言語が現れ、忘却される場所だったということだ。




※1 図像で思考するか、言語で思考するかという問題もある。しかし、図像だけでイメージするには限界があるのではないか。私も原初的なアイデアは図像でイメージするタイプだが、それを具体的に計画したり、あるいはアイデアの欠点を探って修正していく場合は言語に頼っている
※2 幻獣辞典にヘブライ語表記はなかったと記憶している

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