ジャン=リュック・ゴダール オマージュ
ゴダールの教え
『わからない』が強烈に面白い、と教えてくれたゴダール
映画、小説、ドラマ、アート、今の時代は作品を分かりやすく書く、描く、表現する時代だと言われている。おそらく現代アートや現代音楽以外は?
そうでないとPVとかいいねが稼げない。いいねは、知ってのようにわかりやすい作品につくのだ。
私も、そういう事実、既成のマーケット論法に沿って作品を作りたい人の気持ちはわかる。そういう世界に生きているから。
ただそういう風にマーケットに寄り添って作られたものに、納得や感心をしても、いまいちそれを買おうとか、その真似をしようという気持ちにはならない。それなら作品は作らないほうがマシである。(と言い切って一回みたいので、今回使った)
これらのマーケットに沿っての作品に対して、その意味を探ろうとする興味もない。湧いてこない。というわけで、大抵のものは、5分もすれば私は、その作品から離れることになる。(5分は映画館。小説なら2分だ)面白くないからだ。その先が見えるからだ。読めるからである。
そういうわかりやすい作品が面白いと感じる知的レベルに合わせるべきかとつい考えてしまう。
いや合わせるのはやばいであろう。
私の作品への尺度は、それらは映画監督らが教えてくれた。
わからない映画は、何度も見た。無駄だといわれる時間をよくわからない映画を見ることで費やした。(これはタルコフスキー作品もそうだ)
それは、わからないということは、刺激的であり、面白いからである。
そういう気持ちにさせる映画を作ってくれた作家の中のダントツ一位がジャン リュック ゴダールだ。
批評家が、いくらいろいろな形で解説をしてくれても、やはりわからない。何が自分がわからないのかも、わからない。それで、少しづつわからないについて調べた。
その一部については、生活習慣とか、人の違いかと思った。おそらくヨーロッパに長く住んでいたら少しづつわかるかと思ったのだけれど、
この前スクリーンで「軽蔑」を見たけど、やはり所々わからなかった。
ゴダールの頭の中は、わからない。作品もわからないものも多い。
なぜここでこのセリフなのかとか、色々悩む。
わからない。イコール魅力的ではないか?
というわけで、わたしにとってゴダール作品は、ただただ魅力的である。特にいくつかの作品は。忘れられないほどに。
わたしがおそらく死ぬまで、忘れないほどに。