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[#04]困難に立ち向かう両親の軌跡
こんにちは、みなさま。カンボジアシヌークビル在住のそくあんです。
前回のあらすじはこちら。
【カンボジア難民の両親のはなし】
その昔、私は難民の子どもとして日本にやってきました。
日本への難民としての旅立ち、ポル・ポト内戦時代に生き延びる苦難、カンボジア難民としての両親の生活背景と現実、涙ぐましくも語られる過去の出来事、両親が抱えた困難や人生を変えた出来事、無力感と希望の狭間で闘う親子の姿、現状と悩み、不安、介護問題、実際の支援の実態、両親の未来と余生についての考察、同じ悲劇を繰り返さないためにできること。
これらは、カンボジア難民の物語を通して語られる重要な要素です。両親の困難な旅路と人生を通じて、私たちはは過去の出来事から学び、未来を変えるために行動を起こすべきであることを思い起こさせられます。
実際に起きた事実を知って欲しい。そして、世界中のどこかに心の傷を負って生きている人がいる事を忘れないで欲しい。
両親の出身地
父方の祖父母は内戦中に亡くなってます。
母方の祖父も同じく内戦中に亡くなってます。
祖母とはカンボジアパリ平和協定後の92年に、生家であるタケオ州に帰郷した時に再会しました。
しかし、娘の記憶は一切なく認知症を患い数年後に亡くなってます。
両親の出身地は父がコンポンチャム州で、母がタケオ州で生まれました。
出会いはタイの難民キャンプで、父親が居住地にしていたテントの真後ろに母親のテントがあり交際に発展したようです。
最終学歴は父母共に小学校5年生程度まで。
1979年の内戦終結後、1980年に結婚し3人の子どもを授かります。
父親はキャンプ内でタイ語とカンボジア語の通訳に、仲間とゴミ収集の運転手としても活躍をしていたそうです。
また手先が器用なことからお寺や学校建設の大工仕事にも従事し、母親は専業主婦でした。
父の話によると日当として1日300バーツが賃金としてもらえたそうです。
その後、第三国定住国として日本来日後はトヨタの車部品製造業で30年以上勤務してました。
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第三国定住国
(第三国定住とは、すでに難民キャンプで生活するなどして難民となっている者を、別の国が受け入れる制度。国連難民高等弁務官事務所 は、自主帰還、庇護国への定着と共に、難民保護に必要不可欠な手段として挙げる)
現在の両親
【父】数年前、妻の介護に専念するために長年勤めた会社を退職しました。翌年、妻に先立たれ、現在は僅かな年金を受給しながら週5日でパートをしています。68歳で一人暮らしをしています。
【母】2018年から1年ほど「全身性強皮症」の指定難病を患っており、闘病生活の末に62歳で亡くなりました。彼女は難民キャンプ時代から腎臓病と後天性難聴を抱えており、生涯、音のない世界で生活していました。母については別の機会で詳しくお話しします。
インドシナ三国の動き
昭和50年4月30日のサイゴン陥落と南ベトナム政府の崩壊などによってインドシナ三国から大量難民が流出し周辺諸国の大きな問題となりました。
1975年4月17日/プノンペン陥落
1975年4月30日/サイゴン陥落
1975年12月2日/ラオス人民民主共和国成立
1976年7月2日/ベトナム社会主義共和国成立
1979年1月11日/ヘン・サムリン政権成立
1979年5月30日/UNHCR(国連連合難民高等弁務官事務所)とベトナム政府間でODP実施に関する覚書締結
1979年7月20.21日/インドシナ難民問題国際会議開催
カンボジア内戦
第二次インドシナ戦争の中の戦いの一つ。
カンボジア内戦は1970年代にはじまり大規模な虐殺が行われた1975年4月17日から1979年1月17日のポルポト派政権の時代を得て1991年カンボジアパリ平和協定まで続き、20年に及ぶカンボジア内戦のこと。
大量粛清
当時、クメール・ルージュ指導者のサロット・サル(ポル・ポト)はめちゃくちゃな政策を打ち出します。
自給自足による原始共産主義の考え方を基に理想国家の実現に邁進します。しかしその実態は地獄そのもの。
都市部の住民を農村に強制移住させ過酷労働、知識人の無差別虐殺、永久政権の為に少年少女への洗脳教育、裏切者は処刑。
衰弱者には薬を与え施すも生殺し状態。
病人・高齢者・妊婦などの弱者に対しても、クメール・ルージュは一切の妥協はせずに処刑。
多くのカンボジア人が殺害された処刑場は「キリング・フィールド」として知られ、国内には196か所もの収容所が存在しました。この虐殺による犠牲者は、飢餓を含めて約200万人にも上りました
(国民の約25%に相当します)。
カンボジア内戦の終結と新たな希望
朝から晩までの過酷労働に卑劣な食事環境、胃袋は満たされず飢餓状態で抵抗力は落ち人々はやせ細っていきます。
労働者として使いものにならないとわかれば怒鳴られ連行したのち容赦なく射殺。
終わりのない、出口のない時間は生き地獄そのもので極限状態が続きます。
そして嬉しい知らせが耳に舞い込みます。
1978年12月25日、ベトナム軍と反クメールルージュ軍であるカンボジア救国民族統一戦線がカンボジアに侵攻しました。
クメールルージュ軍は北部カンボジアに逃走し、1979年1月7日に首都プノンペンが解放されました。
そして、1975年4月17日から3年8ヶ月続いた大虐殺の政権が終わりを告げました。
「やっと闇から解き放たれた。」
クメール・ルージュ
Khmer Rouge. カンボジアの反政府勢力
「赤いクメール(カンボジア人)」の意で、シアヌークが国家元首時代に、国内の革命勢力を総称してこのようによんだことに由来する。 通常はその中核組織であったカンボジア共産党勢力、とりわけその主流たるポル・ポト派を意味する。
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父親が奇跡的に生き残った理由
クメール・ルージュ下で行われた残虐行為により、父親は絶望の中で生き抜かなければならなかった。
極限状態で死にゆく人々や虐殺された人々の数々の姿が、その居地をさらに悲惨なものにしていた。
当時、父は24歳。
父親が体験した内戦についてお話しをしましょう。
父親の生家は、プノンペンから125km離れたコンポンチャム州に位置しています。その後、父はバッタンバン州に移り住み、さらにその後はタイ国境に近いポイペト州で飲食店の仕事をしていました。
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この極限状態でどのようにして奇跡的に生き残ることができたのか、そして、父親だけでなく他の人々も生と死の境をさまよった状況はどのようなものだったのか。
次章- 父親は殺されずにすんだ-
なぜ私が日本を離れてカンボジアのシアヌークビルに移住したのかに興味を持ってくれる方、将来の海外移住を考えている方や子供の教育について考えている方、またはカンボジア全般に興味がある方は、ぜひ私のnoteをフォローしてくださいね。
最後まで読んでくれてありがとうございます☺
SOKOEUN
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