「#06」絶望の中で必ず生き抜く。
みなさま、こんにちは。カンボジアシアヌークビル在住のそくあんです。
前回のあらすじはこちら。
この極限状態でどのようにして奇跡的に生き残ることができたのか、そして、父親だけでなく他の人々も生死の境をさまよった状況はどのようなものだったのか。
「1976年4月の記憶」
悲劇的な状況
農村への強制移住で、国民たちは
クメール・ルージュ兵士のような服装を身にまといました。黒い服に赤いクローマーを巻き、帽子を被り、鍬を手にして畑を耕しはじめます。4年計画として米の生産拡大のために田植えからお米を栽培をする必要がありました。
しかし、みんなが初めての農業従事者でしたし経験者は誰一人いませんでした。
国民たちはいつも空腹で栄養失調であり、その結果、身体はますますやつれていきます。日中の厳しい暑さもまた、彼らの体力を奪っていきました。
作業中に倒れてしまったり、病気にかかってしまったりする人たちも後を絶ちませんでした。
労働者として認められなかった者たちは、農業に従事することができず、翌日軍事トラックに乗せられて遠く離れた場所に連行されていきます。
その人数は20人から30人ほどであり、100㎞も離れた遠い場所へと連れていかれます。残された私たちは、彼らがどこに連行され、どのような運命が待っているのかを知っています。
しかし、私たちは心の中で泣くことしかできず、悲しみを表情に現すことは許されません。
この悲劇的な状況においても、国民たちは逆境に立ち向かい続けました。
特別な食事と祝いの舞い
1976年4月、ポル・ポト派がプノンペンを占領したことを祝うために踊り子を呼び父親たちを楽しませてくれたそうです。
無知な踊り子たちは、自分たちのパフォーマンスがポル・ポト派による犯罪を祝福する役割を果たしてしまっていたことに気付いていないと思います。
祝福の舞を眺めるだけで父親や人々が躍ることは一切ありませんでした。
初めて目にする白砂糖やジュース、みたこともない豪勢な食事、そしてお肉までもが準備されその間、人々はこの特別な食事とお祝いを楽しむことができました。
死を覚悟した日
クメール・ルージュ兵士と長い時間を過ごすことで人々は徐々に洗脳されていったそうです。1978年のある日、幹部が新しく変わり
漁港で働いていた父に突然、農業に従事するよう命令が下されました。
空腹で体力も奪われ、気力のない父は動くことができず、水曜日の晴れた日に一日だけ休みました。周りの人々は誰も助けることができず、もし助けてしまった場合は共犯者として処刑される可能性がありました。
父親の働く意欲の欠如に対し、周囲は彼を怠け者として見なしていました。
そして、この状況はすぐに新しい幹部に報告されたそうです。
この時、父は自分の命が危険にさらされている事に気づきました。
「明日はもう生きていない」
「死にたくない」
次章- 死を予感した午前は意外と静かに-
父親の実話に基づいて書いてます。
なぜ私が日本を離れてカンボジアのシアヌークビルに移住したのかに興味を持ってくれる方、将来の海外移住を考えている方や子供の教育について考えている方、またはカンボジア全般に興味がある方は、ぜひ私のnoteをフォローしてくださいね。
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SOKOEUN