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身にする、つける習い事の流儀
今年から自分もお稽古通いを再開した。
昨年こども教室をはじめてからありがたいことにお茶を点てているところを写真に撮られることが増え、やっぱり自分の動きって硬いなと思ったのがきっかけ。
実はずっと気になっていて。
師匠にも、社中でも相談したことはあったのだけど『そんなことないよ、大丈夫だよ』と優しく諭されて、そうかーとなんとなく湯気を手で払うように消していたこの気持ち。
自慢ではないけど、手順は割とすぐ覚えられる。
手が勝手に動くを体現できていると思う。
むしろ手引き書で覚えろといわれる方が向いていない。私にはできない。
だから口伝が主の茶道が好きなんだと思う。
でもさ、やっぱりなんだか自分の〝点て姿〟が
納得いかないんだよね。手の回し方や自分から見る膝のあたりの動作が流れていない気がするのよ。
これって人から見ても気づかないのかな?
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師匠のお稽古に通いたいけど、
その曜日は娘の習い事に付き添う日で参加できない。
そう、母は自分の予定だけでは決められないのだ。
さてどうしようか。と思っていたところ、
社中の先輩(Iさん)が以前から近所の人たちや大学の留学生に教えたりしていたのを思い出し、そこに便乗しよう!とお伺いをたてた。
毎週は通えないんですけど…と逃げを作りながら伺うと、どうぞどうぞと引き入れてくれた。
そこに年明けから月に一回通っている。
片道1時間の道のりを娘のお迎えの時間に間に合うように午前中だけ。
私のお稽古流儀としては、その日のうちにお点前をモノにして帰りたいので、必ずお点前を2回させてもらうようにお願いすること。
先日のお稽古も一回目は割と難なくできた。
Iさんの『大変結構でしたよ』の言葉に
なんだか不満を隠せず、こう打ち明けた。
『前からずっと気になっているんですけど、
自分のお点前に硬さを感じるんです』
『え、そうなの?』
『この違和感ってどう埋められるんでしょうか』
私の質問にIさんはこう答えた。
『確かに茶筅の持ち方は少し気になりました。
でも昨今の茶筅は持ち手の長さが違うため、
しょうがないとも言えるし』
はい、ここで1個目の合点。
茶筅の持ち手の長さ、それも気になってた!
最近、世に多く安価で出回っている多くの茶筅が韓国産、中国産。
こども教室ではどうしても茶筅が壊れやすいので
韓国製のものを使用している。これがもともと自宅にあった茶筅の手元の長さが合わないのだ。
茶筅の長さに合わせようとすると指が曲がる。
私は指を曲げて茶を点てていた。
そして2つ目の合点がすごかった。
茶道のお点前ではなんとなくぼんやりとふわっとした表現で作法を習う。
何度も言われることで自分なりに解釈やタイミングを見つけていくのだ。
ただ、こちらもなんとなくでソレを見つけるので、誰かに伝える時もまたふわっと伝えてしまう、ふわっと口伝。
Iさんはこのふわっとした表現から合理的、論理的な体の使い方をみせて教えてくれた。
手の角度はこうすると柔らかく見える。
最後の手首はこう少し逃してあげると肘が入らず窮屈には見えないよ。などなど。
長年のお稽古からその根拠に基づいた体の動かし方を、Iさんは言葉で表現する術を身につけてらしたのだ。
すごい、すごすぎる。
一瞬、スポーツインストラクターかと思った。
目見開いた、錯覚した。
Iさんの言葉によりその骨や筋肉の動かし方を理解できた私は、またひとつ茶道としての新しい扉を開いたくらい、感動した。
物事を習うこととはその教えに従うことである。
それでもどうやって自分の身にするか。
そしてどう伝えるか。
それには多角的な視点をもって、あらゆる方向から物事を見ることの大切さ。
それを再確認させてもらった。
noteもそうだけど、どこかで読んだようなきれいなだけの文章は物足りない。読んでてもつまらないし、印象に残らない。
その人の身になった言葉だからこそ、相手に届くのだと思う。
習う、慣れるだけではない、
深いところを知れたように思った。