普通って何だろう?ドラマ『正欲』を観て感じたこと
普通さあ、天ぷらなら〇〇つけるでしょ!
あなたは天ぷらに何をつけて食べますか?
今から40年以上も昔、高体連サッカーの遠征の夕食時に天ぷらにソースをかける私に周りが一斉にいったセリフが
「普通さあ」の言葉。
我が家ではソースが普通だったのでびっくりしたことを記憶しています。(当時は天つゆとか、塩とかいなかったような。醤油が多かった?少なくともソースはゼロだった笑)
教員をやっている私も生徒にこういうことがあります。
「普通に高校行った方が、ある意味楽かもよ」
何も不登校や高校に行かない選択肢を否定しているつもりはないのですが。
『否定しているつもりはない』
でも、その『つもり』が同調圧力となり苦しむ者たちがいる。
何気なく、同調圧力をかけているマジョリティー側とマイノリティー側の心理の交錯を描いたのがNetflix配信ドラマ『正欲』です。
マイノリティーの心情をガッキー(新垣結衣)と磯村勇人と佐藤寛太(劇団EXILEの俳優さんなんだって。知ってた?)が好演。
それに対する悪気なく『普通』を押し付けるマジョリティ側を演じていたのが、ゴローちゃん(稲垣吾郎)
朝井リョウの小説をドラマ化。
かつて、朝井リョウの小説で『死にがいを求めて生きているの』を読んでなんとも重い気分にさせられたというか、スカッとしない心の闇というか、割り切れない感情が残るというか。
まあ、細胞レベルで深く考えさせられたというか。
だから、私の『朝井リョウ小説』はちょっと重たい!そんな先入観があり正直、このドラマを土曜の夜に観る気はしなかったのです。
ところが、ららみぃたんの記事とその熱く盛り上がっているコメント欄と見ているうちに、なんだか見たくなっちゃって。
普通って何だね?
ドラマ北の国からで、
ゴローさんが、ジュンが妊娠させた相手のお父さん(菅原文太)さんに、メロンを持ってお詫びにいくシーンをご存知ですか。
その時のお父さんのセリフがこれ。
「誠意って何だね」
ゴローさんは、息子のしでかしたこと(じゅんが女の子を妊娠させてしまったこと)を精一杯の気持ちを込めて詫びるためにメロンを持っていった。もちろん、メロンで許してもらえるとは思ってはいないと思いうけど。
でも、手ぶらはない。そこで、選んだのがメロン。
ゴローさんの精一杯の誠意だったのだと思う。
お金だと、露骨。
手ぶらなら、「軽く考えているのか!」
と腹を立てられる。
まあ、そもそも娘を孕ませた相手の父親が何を言おうが、最初から歩み寄れる心境ではなかった訳で。
おっと、話がそれました。
正欲の話。
このドラマについてのララみぃたんの感想文を読んで頭の中でリフレインしていたのが、
「普通ってなんだね」(菅原文太さんの「誠意って何だね」風に読んでね)
という言葉。
ダイバーシティ(多様性)が叫ばれる昨今。
かつては、同性愛者を『ホモ』と揶揄して笑いをとるようなこともあったりしました。(私は友人の結婚式の友人代表を『ホモオダホモオ』でスピーチして爆笑を収めた実績があります😆)
しかし、今はLGBTQについての理解も以前よりは進んでいるように思う。
でも、これって頭の中での理解であって、心情として当たり前に受けいられているか?
昭和に比べて令和の現代はいろんなことに配慮しているはずなのに逆に生きづらい!
そんなギャップをコミカルに描いたのが
TBSドラマ『不適切にも程がある』
ではなかったのかと思うのです。
このドラマが多くの共感を集めたのも、結局はその時代の『普通(当たり前)』に一律横並びにしようとする空気感というか同調圧力の息苦しさを、阿部サダヲ扮する主人公がバッサリと『それおかしいだろ!』とバッサリ切り捨てていく。
そこに視聴者はモヤモヤした感情の溜飲を下げていたのだと私は感じています。
学校に行くことが普通?〜ゴローちゃんの普通〜
今回の『正欲』では、検事を演じるゴローちゃんの家庭はちょっとした悩みを抱えています。
それは、息子が不登校であるということ。
学校に行くことが当たり前で、何とか学校に行かせたいと願う父親ゴローちゃん。
しかし、息子は学校にいかない小学生ユーチューバーに心を励まされ、学校に行かないことを決意。
自分もユーチューバーになりたいと。
それを後押しする母親と普通に学校に言ってほしいゴローちゃん。
奥さんは、学校に行かせることが全てではない!
ということがようやく理解でき、息子を応援しようと覚悟を決める。
ところがゴローちゃんは、「学校に行かないこと」のデメリットの視点から、ユーチューバーのデメリットを強調。
ゴローちゃんの言っていることは決して間違っているわけではないし、親として子供の将来を思えばこその発言。
でもね、この『あなたのためを思って』発言。
これほど、悪気なく人を苦しめる発言はないとも思うのです。
だって、その人のことを思って言っていることだし、あながち間違いではない。
いわゆる正論なんですよね。この手の発言は。
でもね、この発言が問題なのは、
目の前の我が子の気持ちを受け止めていない。
ということ。
奥さんは、息子の悩みに寄り添ってきたからこそ、息子と同じように悩み抜いた。
だからこそ、最後は息子の決意を尊重しようという結論に達した。
ゴローちゃんは、息子の悩みや奥さんの悩みの過程も含めて想像力を働かせて理解しようとすることなく、自分の正論をぶつけている。
ドラマを見ている第三者の私たちにはそれがよくわかるのです。
頭で理解していることと肌感覚で腑に落ちることは違う
このドラマの中でLGBTQのことが話題に出ます。
ガッキーの実家で流れるTVのLGBTQたちのパレードニュースを見た、ガッキーの親?(祖父母?)が一応の理解を示しつつも、
「これだとますます少子化が進む」
みたいなことをボソリという。
LGBTQについて、頭では理解していても、肌感覚だと腑に落ちない。
この感覚って自分にもあるのかもしれない。
そんなことをドラマを見ていて思ったんです。自分の息子や娘がカミングアウトしたら、何のわだかまりもなく、心から受け入れられるだろうかと。
さらに、このドラマでは『水フェチ』がドラマの鍵を握ります。
ガッキーも磯村勇人も佐藤寛太も『水フェチ』というか、『水に性欲を感じる』自分の心のクセを誰にもいうことができない。
そんな悩みをずっと抱えて生きてた。
『水に性欲?』
そんな世界があるのか!?
ってこの時初めて思ったのです。
そうか、『○○フェチ』って単に好きなだけでなく、それは性欲に通じる好きなのか!って。
LGBT Qだって、頭でようやく理解し始めたところに、人には、いろんなフェチがある。
そのことを全部すんなり受け入れるなんて、実は難しいことなんだろうって。
そもそも人生って何よ?
でも、ちょっと待てよ。
そもそも、人はみんな違うんじゃないのかとも思うのです。
たまたまマジョリティ側にいるとそれが『普通』『当たり前』に思えてしまうけど、1人1人見ている世界が違えば、解釈も人それぞれ。
もっと言えば、この人生何を体験したくてこの世に生を受けたのかも人それぞれ。
だから他人と同じである必要なんてない。
自分の人生なのですから。
その段階で、自分の人生テーマに即したキャラ付けがなされているのではないか。
その一つが○〇フェチのようなマイノリティーの感覚なのではないか。
そんなことを思うに至りました。(何の根拠もありませんが、そう確信しています笑)
そんな違いが人それぞれにはある。
これがデフォルトであるkとを互いに理解しようと努力する。
それが社会というものであり、この過程における喜怒哀楽さまざまな感情を味わい尽くすこと自体が人生なのではないか。
だから、
「あの人のように成功しなければ」
とか言って焦る必要もないし
「成功していない自分はダメだ!」
とかもないんです。
人生は失敗とかそもそもないんですよね。
全部の体験全てが完璧でそれを味わい尽くすことが人生なのです!
なんだっていいんです。自分の人生やりたいようにやれば。
不安も貴重な体験。失敗して落ち込むことも貴重な体験。
怒りや悲しみも全部愛すべき感情。
とことん悩んで動いて、味わえばいいんですよね。
全部貴重な体験なんだから。
これこそが人生なんだから!
そう意味では、このドラマの全員に良いも悪いもないとも言えるのかもしれません。
終わりに
ただ、ネタバレしないように言っておきますが、最後『普通』についての大どんでん返しがあります!
うまい!座布団一枚!
と心のなかで拍手を送って、ドラマはエンドロールを迎えました。
身構えていたほど、もやっともせず、気持ちよくエンドロールを見送り、このドラマのオススメをポチりましたよ。
Netflixを観れる方はぜひ観てみて!
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