第9回 ゴキブリ×心理学――「ゴキブリはペットじゃない」って誰が決めた? │ 山口貴史
※この記事はゴキブリを題材にしています。ゴキブリに関する記述が苦手な方は注意してお読みください。
ペットはゴキブリ
私の友人は「ゴキブリ」を飼っています。そう、黒くてすばしっこい昆虫の、あのゴキブリです。
彼はゴキブリに愛情を注いでいます。当たり前と言えば、当たり前です。だって、彼にとってゴキブリはペットだから。
仕事が終われば、真っ先に家に帰り、ゴキブリを愛でます。仕事でストレスが溜まったとしても、ゴキブリと一緒に過ごすうちに気持ちがほぐれていきます。ゴキブリの効果は絶大です。
もちろん、誰にも迷惑をかけないように頑丈な虫かごに入れて飼っているので、家がゴキブリ屋敷なわけではありません。
でも、ゴキブリを飼う際に覚悟をしなければならないことがあります。エサをやり、温度を調整し、どれだけ大切に育てても、ゴキブリは2、3年しか生きることができないのです。3年に一度は悲しい別れがやってくる、ということです。
ゴキブリが亡くなると、彼は数か月落ち込みます。そしてまた新しいゴキブリと運良く出会うことができれば、飼い始めます。
ゴキブリはペットじゃない!
多くの読者の方は私の友人のことを「え、気持ち悪い」「近づきたくない」「変な人」と思ったのではないでしょうか。ゴキブリなんて文字で見るのもイヤ、口に出すのもイヤで「G」や「C」と呼ぶ人もいるくらいです。
もしかしたら別のことを思った方もいるかもしれません。
「そもそも、ゴキブリはペットじゃないでしょ」
「殺虫剤メーカーじゃないんだから、飼うものではない」
そうした考えもまた、わからなくはありません。
今回は、「ペットとしてのゴキブリ」について考えてみたいと思います。
あなたの弟がゴキブリを飼っていたら
たしかに、一般的にはゴキブリはペットではありません。
でも、「ゴキブリはペットではない」と本当に言い切ることはできるのでしょうか?
と、太字で強調されても「嫌なものは嫌だし、何言ってんの?」と思われてしまうことでしょう(圧が強くてすみません)。
なので、少し設定を設けてみます。
あなたの3歳下に弟がいるとします。あなたにとってはかわいい弟です。その弟が4歳になる頃、ゴキブリとの運命的な出会いを果たします。それ以来、ゴキブリを飼い続けています。あなたは一緒に住むのが嫌になりますが、弟の好みは簡単には変わらないし、幼い弟を家から追い出すことなんてできません。
何が言いたいかというと、あなたにとって身近な人がペットにゴキブリを飼っていたら、どう理解できるだろうか?を考えてみたいということです。
ゴキブリはペットじゃない?
冒頭の文章の「ゴキブリ」という言葉を「猫」に置き換えてみたらどうでしょうか。
猫に愛情を注ぎ、仕事が終わったら猫に会うために真っ先に帰り、猫に癒される。世の中で当たり前にみられる日常風景です。おそらく、違和感がある人はほとんどいないでしょう。
でも、改めて考えてみると、「猫はペットで、ゴキブリはペットじゃない」って誰が決めたのでしょう? 不思議だと思いませんか?
私自身、彼から「実はゴキブリを飼っている」と言われた時、驚きました。正直に告白すれば、「ゴキブリ飼う人っているの?」「どういうこと?」と混乱しました。
でも、彼からこう言われて、はっとしたのです。
「僕にとってのゴキブリは、みんなにとっての犬や猫。みんなにとってのゴキブリは、僕にとっての犬や猫」
たしかになあ、と私は深くうなずきました。
彼は犬や猫を全くもってかわいいと思わないそうです。むしろ、気持ち悪いし、嫌いなのです。だから、「猫カフェ」や「ドッグラン」などと猫や犬が市民権を得ている世の中は、理解できないと言います。
マジョリティの論理
彼の言葉を聞いて、皆さんはどう思ったでしょうか。やっぱりゴキブリはペットじゃないでしょうか? それとも、そうとも言い切れないでしょうか?
私は彼の言葉を聞いて、『ソーシャル・マジョリティ研究』という本を思い出しました。著者の綾屋紗月は、自らが自閉スペクトラム症(Autism Spectrum Disorder: ASD)[1]の当事者であり、ASDの当事者研究[2]を行っている方です。
この本は、マジョリティ(=定型発達者)向けにつくられた多数派社会の暗黙のルールをASD当事者のマイノリティ視点から多角的に検討し、解き明かそうとした試みです。
とても考えさせられる本なので詳しく知りたい方はぜひ本をお読みいただきたいのですが、かなり大雑把にまとめると、以下になります。
多数派に所属している人たちは、気づかないうちに多数派の「当たり前」の物差しで社会や個人をみている。あたかも「正しい」社会性やコミュニケーション方法が一つだけであるかのように振舞い、「社会」や「コミュニケーション」のもつ多様性を無視している。
だから、あくまでも多数派の物差しは無数にある物差しの一つに過ぎないことを自覚する必要がある。
この文章を読んでみると、「ゴキブリはペットではない」という言葉がどう見えてくるでしょうか?
「ただ多数派の意見を押し付けているのではないか」
「当たり前は本当に当たり前なのだろうか」
「多様性を無視してしまっているのではないか」
など、いろんな考えが浮かんでくるかもしれません。
押し寄せるいろんな気持ち
とはいえ、
「いやー、でもゴキブリだけは勘弁してほしい」
「当たり前を押し付けているというより常識じゃないのか」
といった考えが浮かんでくるかもしれません。
マジョリティの論理を押し付けているのかもしれない、と考えることができても、人の気持ちのなかにはさまざまな感情が押し寄せてくるのがこの問題の難しさです。
もちろん、他者を理解するためにマジョリティの論理という視点があるかないかでは全く変わってきますし、どんな考えや気持ちであれ浮かんでくるのは人の自由なのですが。
「ゴキブリ」じゃなかったら?
もう少し考えてみましょう。
もし、「ゴキブリ」が「幼い子ども」だったら、「人の血」だったら、みなさんはどう思うでしょうか?
いわゆる小児性愛や殺人鬼と呼ばれる法律に触れる人たちだから許されない、被害者が出ることは言語道断と思われるかもしれません。
もちろん、触法しているか否かは大きな分かれ道です。
では、次の言葉を聞いたらどう思うでしょうか。
これは『ふがいない僕は空を見た』(窪美澄 著)という小説に登場する小児性愛をもつ男性の言葉です。
「そんな趣味(=幼児性愛のこと)、おれが望んだわけじゃないのに、勝手にオプションつけるなよ神さまって」
この言葉に対してもまたいろんな考えや気持ちが浮かんでくるでしょう。
『正欲』(朝井リョウ 著)、『聖なるズー』(濱野ちひろ 著)も多様性を考えさせてくれる本です。
今回のエッセイはモヤモヤした気持ちにさせてしまったかもしれません。
シンプルに言えば、世の中はとても複雑であることを伝えたかったのです。そして、それ以上に心はもっと複雑で、「そういうものだ」と思っているものは実はかなり不確かだったりするのです。
「ゴキブリはペットなのか」
この割り切れない問いは、世の中の多様性や多様性に伴うひとり一人の心に湧いてくる複雑な感情を照らしてくれるのではないでしょうか。
[1] ASDとは、「コミュニケーションがうまく取れない」「人との関わりが苦手」「こだわりがある」といった特性をもつ人のことです。
[2] 当事者研究とは、「精神の病を抱える当事者たちが自分の抱える問題を自分で研究する。自分の問題を仲間の前で発表し、参加者全員でその問題の仕組みや対応策について考え実践する」(野口、2018)ことです。
【参考文献】
綾屋紗月編著『ソーシャル・マジョリティ研究――コミュニケーション学の共同創造』金子書房、2018年
野口裕二著『ナラティヴと共同性――自助グループ・当事者研究・オープンダイアローグ』青土社、2018年