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大切な人の自死とグリーフをめぐる語り合い――wish you were hereの対話を通して|第7回 Iさんとの話。

0歳のときに自死で母親を亡くした筆者が、小学生のときに母を自死で亡くした友人とともに、自死遺族や大切な存在を自死で失った人たちとSNS等で繫がって対話をする活動と、それぞれの率直な思いを話し、受け止め合う音声配信を、約2年間続けてきました。10人のゲストの人たちとの、自死にまつわるテーマでの話しあいや、聞いてくれた方からのメッセージからの気づきと、筆者自身の身近な人の自死の捉え方や心境の変化、グリーフについての学び、大切な人を亡くした人たちへのメッセージを綴ります。
※この連載では、遺族の立場から、自死・自殺についての話をします。それに関連するトラウマ的な体験をしたことがある人や、死にまつわる話が苦手な方などは、読んで辛くなることもあるかもしれませんので、お気をつけください。
※月1回更新

その日僕は、前月に買ったばかりの原付で奈良から1時間以上かけて、大阪にある大きな公園に来ていた。2023年の5月末の水曜日。ちょうど母が自殺してから30年の、節目の日だった。そして僕自身もちょうど30歳で、亡くなったときの母と同じ年齢になっていた。

僕は仕事を休職していた。転職先の職場で、適応障害からうつ状態になって、4月半ばから働けなくなっていたのだった。

母の30年目の命日を迎えるその日に、大阪で人と会う約束をしていた。その人は大学の先輩のお母さんで、3人の子ども(そのうちの次男が先輩だった)を育てあげて、当時は子どもたちが暮らす施設の職員をしていた。精神科の看護師の経験もあって、以前僕がメンタルヘルス関係の仕事が気になっていたときに先輩がつなげてくれたご縁だった。やわらかい雰囲気で、ユーモアのある方だった。ここではIさんと呼ばせてもらう。

春先に久しぶりにIさんから連絡をいただいてから何度かメールのやり取りをしていて、自分がうつで休職をしているということは、先にIさんに伝えていた。

「実は、GWを待たずにうつで休職してしまいました。(中略)4月半ばに休職を始め、3ヶ月は休職しようと思っているので、会うのは平日でも土日でも大丈夫です。」

「おつらい状態と思いますが、焦らず、気持ちがゆったり、できますように。人生の棚卸し、というか、ありのままの自分になって、色んな荷物は一旦、肩から下ろして、ぶちまけちゃいましょう。人間、良くなるように出来ているので。」

このメールをもらったのが、休職してから3週間後のことだった。まだまだ頭が回らず、ときどき理由もなく涙が出てくるようなひどい状態だったけれど、「人間、良くなるように出来ているので。」というIさんの言葉に少し救われた。

午後に公園で待ち合わせをして、その方のお気に入りの場所に移動し、コンビニで買ったコーヒーを片手に、ベンチに座って話をした。植物がたくさん見える素敵な場所だった。雲が多かったおかげでそれほど暑くはなく、やさしい風も吹いていて、日陰のベンチは心地良かった。

休職するまでの状況や、当時考えていたことを聞いてもらったあとで、今日がたまたま、母が自殺をした日からちょうど30年なのだと話した。母が亡くなった30歳という年齢に自分もなったということも。

その話をしたらIさんは、3人の子どもがまだ小さかったときのことを話してくれた。Iさんは、元夫からのDVがあって別居していたころ、重いうつになっていたらしい。ご両親に子育てを助けてもらっていたけれど、しんどくて布団から出られない日も多く、子どもたちの面倒を見ることができない自分を責めて、何度も死のうと思ったと話してくれた。

「だけど、自分が死んだらきっと、子どもたちは、自分たちのせいで死んだんだと、自分のことを責めると思って、死ぬことだけはしないようにした。ただ生きることだけを考えて、1日1日過ごしていた。それでも死にたい気持ちは強かったから、生きるか死ぬかは、紙一重だった。」

Iさんは子育てのしんどさでうつになったわけではなかったようだけれど、子育てをしている人のなかには、プレッシャーや不安や負担感がのしかかって、「こんなに辛いなら死んでしまいたい」と思う人が、実はたくさんいるかもしれない。そこから実際に行動に移すかどうかも、そして本当に亡くなってしまうかどうかも、すべては、紙一重なのかもしれず、起きた事実はただ、それぞれのポイントで、どちらに傾いたかの偶然の積み重ねでしかないのかもしれないのだと、Iさんの話を聞いて感じていた。

それまでは、初めて母の自死を家族から聞かされたときに思った「自分が生まれたために育児のしんどさが増して母が死んだ」という理由づけが、何年たってもどこかにまだうっすらと残っている感覚があった。母が自殺という行動をとったことに対する「どうして自分たちのために生きていてくれなかったんだろう」という思いも、うつになって強い孤独を感じたときに、再びよぎっていた。

だけど、母が死んだことは、子育て中の人たちに、いろんな事情で、死にたいくらいの辛さを抱えている人がきっと何人もいるなかで、偶然の積み重ねによって起こった、一つの現象に過ぎないのかもしれない。

人が死にたくなるほどの辛さを感じることを責められないのと同じで、行動に移してしまうことも、実際に亡くなってしまったことも、誰かや何かを責めたりするようなことではないのかもしれないと思った。そう思うことで、なぜか心が解放されたように感じた。

世界中で日々、意味づけや解釈をしようとしても仕方がないような、ときにひどく残酷で、ときに驚くほど幸運な、いろいろな現象が偶然に起こり続けていて、それが互いに影響し合いながら時間は流れていく。災害や戦争、身近な人の死や、誕生、幸運な出会いや喜ばしい出来事。自分ではコントロールできないことだらけの世界で、いろいろなことが複雑に関わり合っている。無数の歯車の一部を、その人の人生として、一人ひとりが生きている。

これはとても冷淡なとらえ方かもしれない。母は自らの自殺を、一つの現象だなんて、自分が苦労して生んだ子に思ってほしくないかもしれない。ただ、僕にとってこの日の気づきは、大きな心境の変化になった。

母が死んだことは偶然だし、そのタイミングが偶然、自分を生んだあとだったために、自分が今こうして生きている。そう思ったときに、たまたま残った命で、人生で何をしようかと、前向きに考えられるようになった。それまでは、多かれ少なかれ過去の経験にとらわれながら生きていた人生だったけれど、自分が心から望む生き方を考えるようになった。この日のIさんとの会話は僕にとって、とても大きな出来事で、一つの転換点になるような出来事だった。

【著者プロフィール】
森本康平
1992年生まれ。0歳のときに母親を自殺で亡くす。京都大学で臨床心理学を専攻後、デンマークに留学し社会福祉を学んだのち、帰国後は奈良県内の社会福祉法人で障害のある人の生活支援に従事。その傍ら、2021年の冬、自死遺族の友人が始めた、大切な人を自死で亡くした人とSNS等で繋がって話をする活動に参加し、自死やグリーフにまつわる話題を扱う番組“wish you were hereの対話”をstand.fmで始める。これまでに家族や親友の自死を経験した人、僧侶の方、精神障害を抱える方の支援者など、約10名のゲストとの対話を配信。一般社団法人リヴオンにて、”大切な人を亡くした若者のつどいば”のスタッフとしても活動。趣味はウクレレと図書館めぐり。
“wish you were hereの対話”
https://lit.link/wishyouwerehere