第4回 泥×心理学――映画『ゆめパのじかん』から考える「偽りの自分」 │ 山口貴史
最近、「どろんこ」になったことはあるでしょうか?
手も足も服も泥だらけになる、あのどろんこです。
最後にどろんこになったのはいつだったっけ……なんてことを考えながら観た映画があります。
映画『ゆめパのじかん』
その映画の名前は、『ゆめパのじかん』(重江良樹監督)といいます。
「ゆめパ」に通う子どもたちが主人公のドキュメンタリー映画です。
(公式ホームページ:http://yumepa-no-jikan.com/)
「ゆめパ」とは神奈川県川崎市にある「子ども夢パーク」の通称で、約1万㎡(大きな野球場のグラウンド部分くらい)の広大な敷地をもつ子どものための遊び場です。
「川崎市子どもの権利に関する条例」をもとにつくった施設で、川崎市が決めた子どもについての約束を実現する場です。
アスレチック、タワー、ウォータースライダー、トンネル・・・
スタッフと子どもたちお手製の魅力あふれる遊具が並んでいます。
映画の冒頭から私は面喰いました。
出てくる子どもたちが、そろいもそろって「どろんこ」なのです。
泥だらけのまま全力で駆け回り、勢いよくすべり台を滑ります。
付き添う親も泥まみれ。
「泥」の強烈さに目を奪われながら、映画に引き込まれていきました。
「じかん」と「時間」
そんな子どもたちの姿を見て、私はあることに気づかされました。
それは、私たちが大人になるにつれて忘れてしまった「時間」があるということです。
重江監督によると、時間には2種類あると言います。
〈じかん〉
何者にも邪魔されず思いっきり自由に過ごせる豊かなジカン。「~してはいけません」「あと30分だけ遊んでいいよ」など、制限がない。
〈時間〉
社会に流れている忙しないジカン。さまざまな制約のなかで、その流れに自分を合わせていくことが求められる。
子どもの頃は、時を忘れて夢中になれる「じかん」がたくさんありました。
しかし、大人になるにつれて、私たちは社会の「時間」に追われ、「じかん」を忘れてしまいがちです。
この映画は、「じかん」を浮かび上がらせることで、人間には「じかん」と「時間」という2つの異なるジカンが流れていることを教えてくれます。
皆さんも子どもの時に体験した「じかん」と、大人になってから体験している「時間」は違う気がしないでしょうか?
今回は「じかん」と「時間」について考えてみます。
「じかん」が「時間」に支配される
ゆめパには遊び場だけでなく、「フリースペースえん」と呼ばれる学校に行けない子どもたちが通うスペースがあります。
そこに通う寡黙な小学生、ミドリはこう言います。
「勉強そのものは嫌いじゃない。でも、学校でノートに写すだけの勉強が嫌いだった。」
このように思った後、ミドリは不登校になり、ゆめパに辿り着いたといいます。
このミドリの言葉に、自分を偽ることへの抵抗を私は感じました。
小学校という社会で流れている「時間」に合う自分を急ごしらえで作り上げるなかで、ミドリは「偽りの自分」を過度にせざるをえず、疲れてしまったのかもしれません。
「偽りの自分」とは
この「偽りの自分」という言葉は、児童精神科医のWinnicottがつくった言葉です[1]。
「偽りの自分」とは何か。
内心では全然思っていないのに周りに合わせて「面白いね」と言ったり、相手が偉いから「尊敬してます」と言ったりするような自分のことです。
ごまかしの自分、忖度の自分といったニュアンスでしょうか。
試しに、今週、自分が偽りの行動をとったと思う場面を3つ思い浮かべてみてください。そのとき、どんな感情が湧いてきたでしょうか。
ジャイアン度数(第2回「ウォーターサーバー×心理学」)と同じく、「偽りの自分」は誰にでもあるものです。そして、こちらも人によって割合が異なります。
偽りの自分に支配されてしまうと、どうなるか。
まるで誰かの操り人形のような人生になってしまい、自分で生きている実感をもてなくなってしまいます。
だったら、偽りの自分はない方がいいのでしょうか。話はそう単純ではありません。
ごまかしや忖度の自分が全部なくなってしまったら、目上の人から嫌われたり、会社で評価されなかったり、傷つき過ぎて社会で生きていくのが難しくなるかもしれません。
偽りの自分は、「本当の自分」(ありのままの自分)を社会から守ってくれているとも言えそうです。
ポイントは、「偽りの自分」を“ほどほどに”身につけることです。
ミドリと「じかん」
再び映画に戻りましょう。
ゆめパは何者にも邪魔されずに自由に遊ぶ「じかん」、とことん悩む「じかん」を保証してくれる場所です。スタッフたちは見守り続けます。
そのなかでミドリは木工と出会います。
最初は自分よりも年上の女の子が木を切ったり、組み立てたりする姿をどこか不安そうに見ています。
けれど、その子に手伝ってもらいながら木に触れていくうちに、ミドリの目は不安の色が薄まり、力強さが増していきます。そして、木片から鳥の姿を彫り出すバードカービングに没頭します。
その腕前は驚くほどで、私は思わず見入ってしまいました。
鳥を彫る姿は、過度になり過ぎた「偽りの自分」の中から「本当の自分」を掘り出そうとしているようにも見えました。
この映画が示唆していることは、過度になり過ぎた「偽りの自分」を「卒業」するためには、悩める場所と見守る人の中で体験する「じかん」が不可欠であるということでしょう。
「偽りの自分」を失うこと
なぜ、そのような場所や人が必要なのでしょうか。
偽りの自分を卒業することは、こんな自分自身を喪失することでもあるからです。
優等生の自分
友達がたくさんいる自分
親の自慢の子である自分
大人だって同じです。
社交的な自分
仕事ができる自分
組織で評価される自分
たとえ、本人がそうした自分であることに無理を感じているとしても、うまくやっていた自分や役割を失うことは、怖く、深く傷つくことです。
何かを失った時、人間には「喪の作業」(失ったものを悲しむ心のプロセス)が必要になります。
その作業は重要な他者と居場所がないと難しいのです。
再び「偽りの自分」をつくる
「そんなんじゃダメだよ」
「作っていて楽しいだけではない世界があるんだよ」
映画のなかで、ボランティアの木工職人から厳しくも愛情深い言葉が飛んできます。
そうして「じかん」の中に厳しく責任が求められる大人の「時間」が入り込み、せめぎ合いが生じる中で、本当の自分を守るための「偽りの自分」がゆっくりとつくられていきます。
“ゆっくりと”、がミソだと思います。
急激ではなく、ゆったりとつくられる偽りの自分は、過度で人生に虚しさをもたらすものではなく、適度で本当の自分を守ってくれるものになりうるからです。
「じかん」を見つけてみる
読者のみなさんは最近、「じかん」を感じたことはあるでしょうか?
子どもも大人も、生活の中の「時間」と「じかん」を振り返りながら、「偽りの自分」と「本当の自分」のバランスを考えてみることは、人生を豊かにしてくれるのではないでしょうか。
とはいえ、現実の大人は忙しいものです。
どろんこになる機会なんてそうそうありません。
「たかし、水切りしよーぜ!」
最近、子どもみたいな大人の友人から水切りに誘われました。川の水面に石を投げ、何回跳ねるかを競うあれです。
「え? この年でやるの?」と内心思いつつ、一緒に石を投げてみました。
私の石は、ボトッと一度も跳ねずに沈んでいきました。
友人が投げた石は、ピョンピョンピョンピョンと10回も跳ねました。したり顔でこちらを向きます(YouTubeを見ながら練習したそうです)。
負けじともう一度投げてみます。また沈みます。段々と悔しさが湧いてきます。
そうした「じかん」を過ごすうちに、かつて子ども時代に味わった身体感覚を伴いながら心のなかにある素の自分が出てきたような気がしました。
「いい大人が何を……」という心のささやきに耳を傾けず、たまには「じかん」を過ごしてみてはいかがでしょうか。
[1] 正確には「偽りの自己」ですが、ここでは日常に馴染みのある「偽りの自分」と呼びます。
【参考文献】
『ゆめパのじかん』パンフレット(2022)ノンデライコ
Winnicott, D, W.(1960)本当の、および偽りの自己という観点からみた、自我の歪曲(牛島定信訳『情緒発達の精神分析理論』岩崎学術出版、1977年)