【連載】すべてのひとに庭がひつよう 第11回|猫の消息|石躍凌摩
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第11回|猫の消息
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暦に春ときこえても、春色はまだととのわず、鳥のさえずりばかりの春か——立春にはきまって、そんな心持になる。そうしてこの春は鳥ばかりでなく、猫も鳴いた。
この二月まで住んでいた家の辺りには、見覚えのあるかぎりで五、六匹の猫がいて、色も柄も様々に、おそらくはみな野良であった。そのうちのどれかは分からないが、春の立つか立たないかに、夜になるとしきりに鳴くようになった。にゃあにゃあやるうちはまだ可愛いものだが、夜にきこえてくるのは咽喉を震わせて唸るような声で、あわれをさそう。ところへ別の声が近付いたかと思うと、たちまちとっくみあいの喧嘩にまでなる調子が、姿も見えない夜の闇から古家の薄壁を伝って、いたたまれなくなる。それが猫の恋であることを、私はこのとき初めて知った。と同時に、私はみっともないほど物を知らない事を知った。そろそろ猫について本当に知らなければならない——それは私が昨年夏にやり残していた宿題でもあった。
ローズマリーを庭に植えていて、それが伸び放題になっていまして、そろそろ剪定をしたいのですが、どうもローズマリーに触れると痒くなるアレルギーのようで、ヒタキさん、ですか?チラシを見て、今お電話させていただいたのですが——私の代わりにローズマリーを剪定していただけないでしょうか。
と、昨年の末に連絡があり、年明けに伺って見ると、そこにはたくさんのローズマリーが植えられていて、鉢植えまであった。お好きなんですかと尋ねたら、それが猫除けの為に植えはじめたらこんなに増えてしまって、と施主は答えた。そうして後で、アレルギーに気付いたのだという。肝心の猫除けの効果は、あまり無いようであった。
それでも私は言われた通りにローズマリーの剪定をこなし、切った枝は捨てずに玄関近くの花水木の根元に張り巡らせておいてほしい、すると猫が嫌がって近寄らないとのことで、そんなものかと根元に巡らせる。よく見る黒いゴム製の、剣山みたいなあれを置くよりはましかと思いながら。ところで、仮に猫が来れなくなったとして、その猫は今度はどこへ行くのだろう。作業を仕舞って帰りがけに話を聞いたところでは、ここら辺でも最近は庭をアスファルトで固める家が増えたので、行き場のない猫たちがここへ集ってやって来ているとのことだった。
それから何の因果か、次に依頼があった庭もまた、猫に困っている庭であった。そこへは昨年の夏に一度手入れに伺った際に、猫の糞害に困っている旨を聞かされていて、猫についてはほとんど何も知らない私は、次回の冬の剪定に伺うまでに調べておきます、と請け合ったはいいものの、ネットで調べられる範囲の事なら、施主も当然目を通している筈で、その庭には例の剣山みたいなあれや、猫を模った感知式のブザーが至るところに置かれていたのだが、ほとんど効果は無いようであった。仮にそれが効果を発揮したとしても、個人宅の庭としてはかなり広いその庭の全体に設置するわけにもいかず、他に効果があるとされているハーブ類等匂いで訴えかけるものについてもそれは同じ事であった。漂白剤が効くと聞いたのですが、庭に撒いてもいいものでしょうか、と聞かれた際には、それだけはやめておきましょう、というのも土壌や植物にどのような影響が出るか分からないので、と答えてから、撒く前にそのような抵抗を覚える施主であったことにひとまず安心したのだった。
それから冬になって、ローズマリーの庭に入った数日後にそこを訪れると、庭の一面に落ち葉がびっしりと敷き詰められていた。相変わらず猫の糞害はやまないようであったが、ここのシンボルとなっている南京櫨が落とした葉っぱを、落ちるにまかせて敷き詰めていたら、猫が通るたびにぱちぱちと爆ぜるような音が猫の気に入らないのか、少しはましになったような気がして——まぁ、これだけ落ち葉を敷き詰めてあるので気付いていないだけかも知れませんが、と弱ったように施主は笑った。
個人宅ではそうそうお目にかかれないほど立派な南京櫨の剪定を、梯子の立ち位置をとっかえひっかえしながら愉しんでいると、何やら視線を感じて、見ると猫がいる。そのようにして何度猫を見たことか、しかもすべて異なる猫で、これは彼らが招かれざる客なのではなく、猫の土地にひとが家を建てたという方が実際のところなのではないか。とそう思えば、私もまた猫の客なのであって、邪魔して御免とそそくさと手入れを終え、掃除も済ませて車に乗り込むと、途端に異臭が鼻をついた。施主の懸念は当たっていたのだとそこでさとった。
私の家の辺りで猫が鳴き出したのは、南京櫨の庭に伺ってから、さらに数日後のことだった。来る日も来る日もよく鳴くものだと感心しながら、せめてもの耳栓をして眠り、起きてはあれしてまた眠り、そうしてある朝、起きがけにふと硝子戸を開けて庭に出ると、地面の一点が妙に掻き乱されていて、よく見るとそこに、糞が転がっていた。そこに住み始めて一年近くが経っていたが、それは初めてのことだった。それがまた、私がその家を越そうと思い、今の家の契約を申し込んだ直後の出来事だったので、それに感じて猫がやって来たのではないかと思わずにはいられなかった。
あるいは夏から手付かずであった宿題の、それは催促でもあっただろうか。なるほど、自分の庭に糞をされてはいい気はしない。これが毎日の事となれば、あの施主達のように気が滅入るのも無理はないだろう。とそう思っていたら、毎日の事になった。そこでこころみに、ちょうど手元にあったローズマリーの剪定枝を問題の箇所に邪魔になるように置いて、そうして、翌朝また確かめてみると、枝はどかされ、同じ所に痕跡があり、見ると律儀に糞が転がっていたのには思わず笑ってしまった。枝が邪魔ならその横にでもすればいいのに、わざわざ枝をどかしてまで同じ場所にしたいというのが猫の習性であることを知った。もっともどちらにされるにしても困るので、さらに広く枝を張り巡らせてみたり、米ぬかや燻炭を土に撒いたりするうちに、ついに来なくなった。夜には相変わらず恋情を訴えてやまなかったが、翌日もその次の日も、用は別の所で足したようだった。
間もなく私はそこを出て、越した先には野良もいないようで、夜も静かな生活が始まったのだが、その静けさにかえって、猫のことが気にかかるようになった。
これまで私が猫について今ひとつ本気になれなかったのは、まずもって人間は、庭においては少し困っているくらいがちょうどいいのではないかと考える癖があったからかも知れない。生類のひしめく庭という場の、すべてが施主ひとりの思い通りに行くというのは、端的に不自然ではないだろうか。たとえ庭仕事の大半がひとの困り事にはじまるのだとしても、その解決が庭に生きるいきものにとって不利に働くのであれば、容易には請け合えない、請け合ってはならないというのが私という庭師の立場であった。
もうひとつは、私が猫を特別好きでも嫌いでもないということがあった。猫にかぎらず動物全般についても概ねそうであったのは、私がこれまで植物に傾倒してきたことの裏返しであったような気がする。そうした傾倒の結果として庭師という仕事があり、今その仕事の中で、私は猫に出会い直そうとしている。
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そういえば、私が通っていた大学の先生が、たしか猫について研究していた筈、とあるひとに聞いて、その名前を検索窓に打ち込むと、昨年『ねこはすごい』という本が出版されていることが分かった。その目次の最終章には、「人とねことの共存社会に向けて」とあって、光明の差す思いがした。
つまり、私たちが猫と呼んでいるものは、この世界に初めから存在していたものではなく、人間の手によって造られた動物であり、家猫という和名からしても、domestic catという英名からしても、猫とは飼い慣らされた(=domestic)ものを意味することを、私はこれを読んで初めて知った。
野良猫に対する安易な餌やりは慎むべきだという話にしても、それは庭にやってくる雀に餌として米粒を与える際に、あんまりやりすぎると他で食べ物を得られなくなるから量を加減するとか、食べ物の不足しやすい冬時期に留めるなどといった配慮と同じ事を指すものとばかり思っていた。おそらくは野生動物の中でも人里により多く生息する雀のようなものとして、野良猫を見ていたのだろう。あるいは雀を鳥籠で飼うようなものとして、家から一歩も外に出ることなく飼われる猫を見ていたものだから、家で飼われるにしても出入りは自由な方がより猫の自然に近く、野良猫であれば雀のように端から野に放っておくのがすなわち自然であるという風に見ていた。猫を庭から締め出す行為への違和感が拭えなかったのも、ひとつには、それが人間の身勝手な自然への介入になりはしないかという懸念から来るものであった。
ところが人間と猫との歴史を鑑みれば、事の初めからそれは家畜化という自然への介入であり、野良猫とはだから、一度は人間が手懐けた自然が、再びその手に追えなくなった状態だといえる。その結果として次のような現実があることを、私はまたしても知らなかった。
なぜこのような事態になっているのか。またどうすれば、この事態を防ぐことができるのか。それこそが、野良猫に対する安易な餌やりは慎むべきだという言葉の真意であった。どういうことか。
そうして昔は鼠算、今は猫算といわれるほどに増えた猫たちのもたらす糞害等々様々な問題の、最も手早い解決として採用されているのが殺処分であり、それが物凄い数に上っているというのが、人間と猫との関係の現実であるということだった。それはそのまま、人間と自然との関係の現実ともいえるのではないだろうか。猫であるから殺処分される数が把握されていて、その数に驚きもするが、それは氷山の一角に違いない。
幸い、猫の殺処分数に関しては、年々減少の方向に進んでいるのだという。先の引用をもう一度読み返すと、続きには次のように書かれている。
譲渡会や啓蒙活動というのは言葉によっておおよその想像はつくが、地域猫とは初耳で、次を読むまでは全く想像もつかなかった。
私が見てきた施主達の苦労は、きっとこの地域猫というこころみによって概ね解決されるのだろう。その発案者である黒澤泰さんの書かれた『地域猫のススメ ノラ猫と上手につきあう方法』には、次のように書かれている。
黒澤さんからすればさっさと捨てるべき考えに、私は何も知らない為にこだわっていたと見える。ただ、声かけすればよいだけとあるが、それが難しいのだと思う向きも多いのではないだろうか。むしろそちらの方がいまや多勢かも知れない。道を歩けば至るところで目にする、猫除けに工夫を凝らす余りに荒んで見える庭の数々がそれを物語っている。猫の問題とは、だから人間の問題であり、猫はそうした人間をよく映す鏡なのだ。
それでも、もしまた猫に困っている庭に私が手入れに伺うことがあれば、ご存知も承知の上で、きっと地域猫の話をするだろう。ただいまひとつ私の中で割り切れていないのは、それが「理想的には、一代限りの地域猫が天寿を全うし、その地域でのノラねこの数をゼロに近づけること」を目ざしているとあって、本当にそこまでしていいものかという疑念が残る。事の初めから家畜なのだから、人間が管理するのは当然の責任というのも分かるのだが——じゃあ殺してもいいのか、とすかさず批判の矢が飛んでくるだろうか。現状としては、殺さない為には産ませないようにする他はない、個を守るためには種に手を掛けざるを得ないというのは百も承知で、このまま社会がその方向に進んでいくのだとしても、そのことの先に野良猫が居なくなるという結末が待っているというのは、どうもまだ想像がつかない。
そもそも野良猫が居なくなることなど考えたこともなかったが、思えば野良犬はもう居ない。犬にはすでに手が打たれているのだ。そうして今でも打たれ続けているからこそ、私たちの目にめったに触れないでいる。その事を私たちはこころよく忘れている。事は犬にかぎらず、また覚えがあるか否かにかかわらず、人間はすでにこの惑星全体に手を付け、また手を入れ続けているという事実に、猫に接して今更ながら気後れがする。
時々ふとした話の拍子に、かつては野良犬がいたと懐かしいような面持ちでひとが語るのを何度か聞いたこともあるが、いずれの語りにも喪失感を覚えなかったのは、野良犬は可愛いというよりは危険で恐ろしいということが勝つからだろうか。
台湾に初めて訪れた折に、道路の真ん中に黒くて大きい犬がぐったりとした様子で寝そべっているのを、初めてながら、懐かしい思いで眺めたことを思い出す。いつかは野良猫もそのように、時々何かの拍子に思い出される存在になるのかも知れない。
と、こうして考えている間にも、猫たちはまた新たな子を孕む。私の家にやってきていた声しか知らない野良のあいつは、無事に恋を遂げただろうか。
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