第1回 エビチリ×心理学――「食べ物の好き嫌い」の呪い │ 山口貴史
突然ですが、みなさんの嫌いな食べ物は何でしょうか?
私が“あいつ”と出会ったのは、小学3年生の時でした。
銀の皿に乗った赤い食べ物。テカテカしていて、生臭くて、芋虫を赤く染め上げたようにしか見えない。嫌な予感しかしない。思い切って口に入れてみる。
「なんだこれ…」
思わず声が出る。食べられたものじゃない。でも、残したら、昼休みに外で遊べない。必死に飲み込もうとする。ああ、ダメだ。あまりに気持ち悪くて吐きそうになる。
これが、私と「エビチリ」の出会いです。それ以来、私はエビチリどころかエビが食べられなくなりました。
「好き嫌いは良くありません」
髪を伸ばした“のび太のママ”にそっくりなその担任は、「好き嫌いは良くありません」とよく言いました。「残さずに全部食べなさい!」も口癖でした。
私は給食で出されたエビチリを、毎回吐きそうになりながら食べました(なぜかその小学校の給食にはエビチリがよく出ました)。その後も同じような言葉を何度も聞くうちに、「好き嫌いをする=悪いことをしている」という感じがしてきました。
20歳のとき、私は突如キャンペーンをはじめてみました。その名も「好き嫌いをなくそうキャンペーン」です。
大人たる者、好き嫌いをしていてはいかん、と思ったからです。居酒屋で出されるエビの刺身も、バーミヤンのエビチリも積極的に食べてみました。エビの生臭さに吐き気を催しながらも、「全然大丈夫、いけるいける」と思いきり飲み込んだのです。
でも、結果は惨敗でした。嫌いなものはどうしたって嫌いなのです。
段々とめんどくさくなって、「甲殻類アレルギーなんで」という便利な言葉を開発しました。そのセリフは、「ああ、そうなんだ、じゃあ仕方ないね」と相手から言ってもらえるマジックワードでした。
けれど、心の中にはごまかしに伴う小さな罪悪感と「好き嫌いをする自分は未熟」という感覚が残り続けました。
好き嫌いは良くないのか?
生きる上で大きな問題はないし、人に相談しても「へー、そうなんだ、みんな好き嫌いってあるよね」で終わっちゃうような些細な悩み。でも、小さなトゲのように疼き続ける「食べ物の好き嫌い」。
みなさんはどう捉えているでしょうか?
数年前、“給食は残してはいけません文化”を問題視する報道がありました(2024年4月7日付の朝日新聞にも載っていたので、定期的に取り上げられるテーマなのでしょう)。完食の強要や、行き過ぎた指導が問題になったのです。
ぼんやりとニュースを見ながら私は、「時代は変わったもんだなあ」と思いながら、「そもそも好き嫌いはいけないのか?」について考えてみました。
「栄養が偏る」
「食べ物がもったいない」
これまで何度も言われてきた言葉です。どれももっともらしいけれど、よくよく考えてみれば理に適ったものではありません。
エビを食べなくても他のもので栄養は補えます。私は魚は好きでしたし、貝だって食べていました。たしかに残したらもったいないけど、だったらエビ好きなヒラタくん(当時のクラスメイト)に食べられた方が、エビも嬉しいはずです。エビチリを待ち望んでいた生徒は他にもたくさんいました。
…と考えていくと、私の心にあった小さなトゲは、「食べ物の好き嫌い」そのものではなく、好き嫌いについての「そういうものだ」から来ているのかもしれません。
善意から発せられる大人の言葉は、小さな呪いになることがあります。
大切なのは、「なぜ、そうなのか」を説明することです。理由や目的を説明できない大人の話は聞かなくていい、と吐きそうになりながらエビチリを食べていた小3の私に言ってあげたい気分です。
「好き嫌い」から学んだこと
私が「エビチリ」から学んだことは、「好き嫌いは良くない」という常識的なルールは理由を突き詰めると案外重要ではないということです。
どういうことか。
自分のなかで「どうして好き嫌いは良くないのか?」と問うてみます。
「栄養が偏るから」→<他で補ってるから別に偏らなくない?>
「食べ物がもったいないから」→<他の人が食べればよくない?>
といった具合に、大した理由は出てこないのです。
自分の中で常識的なルールと思っていたものは、大した根拠がないのに守らなければならないと思い込んでいた呪いなのかもしれません。特に食べ物のように嗅覚や味覚といった身体感覚が伴う場合、心の奥深くまで刻まれやすいと言われています。
このことは好き嫌いに限りません。
「友達は多い方がいい」
「みんなに合わせることが大切」
「苦手は克服したほうが良い」
学校で学ぶ大部屋主義的(「みんな一緒」)な考え方に、私たちは知らず知らずのうちに苦しみます。だから、まずは前提となっている「常識的なルール」(=そういうものだ)を疑ってみることが大切なのではないでしょうか。
と、「どうしてキノコを食べなきゃいけないの?」と息子に聞かれ、「確かに何でだろう…」と答えに窮して困っている大人の私は思うのです。