エピグラフ旅日記(8月)
8月某日(2)のつづき
──連載第1回では、自宅からいちばん近い駅前の市民図書館で、本格的にエピグラフを探しはじめた。「まずは文学の個人全集をしらみつぶしに見てみよう」という方針で、閲覧室のいちばん端の棚、つまり日本十進分類表のおしりの990番台「その他の諸文学」、980番台「ロシア文学」の棚から確認を始め、『ドストエーフスキイ全集』(★1)の月報に惹きこまれて、早速手をとめてしまったのだった──
この図書館に所蔵されている『ドストエーフスキイ全集』では、月報はステープラー(いわゆるホッチキス)で綴じられ、表紙をひらいた最初の見開き(表見返し)に糊づけされている。つまり本全体の冒頭に置かれ、短い評論、個人的なエピソード、刊行の裏話などが綴られていて、本がつくられた当時の社会への「扉」となっている。……そう考えると、エピグラフの「きょうだい」か「いとこ」のようなものにも思えてきて、愛しさもひとしおである。(「エピグラフ =扉」説については、山本貴光さんの連載「異界をつなぐエピグラフ」第2回を参照されたい)
『ドストエーフスキイ全集』では、第2巻の月報の堀田善衛「『白夜』について」(連載第1回参照)のほかにも、幾つかの月報に読み入ってしまう。とくに第4巻『死の家の記録 ネートチカ・ネズヴァーノヴァ』月報の石原吉郎「強制された日常から」で滞留。このエッセイで石原は、冒頭にV・E・フランクル『夜と霧』(★2)の末尾の「強制収容所から解放された直後の囚人の混迷と困惑を描写した」部分を引用し、自らのシベリア抑留とそこからの帰還の経験を重ねあわせながら、次のように書いている。
この文章には胸を刺され、しばし放心してしまった。
机に積んでいた本を両手で抱え、書棚に戻しに行く。『ドストエーフスキイ全集』の隣には同じ河出書房新社の『トルストイ全集』(★4)が並んでいる。『ドストエーフスキイ全集』(米川正夫訳)は焦げ茶色、『トルストイ全集』(中村白葉・中村融訳)はえんじ色に近い赤。前者は1969〜1971年、後者は1972〜1978年の刊行だが、いずれもそれ以前に刊行された同訳者による全集に日記、書簡、研究ノートなどを付し、「愛蔵決定版」として編み直されたもの。
ドストエフスキーもトルストイも、エピグラフを置いた作品はかなり多い。いずれも聖書からの引用が目立つのだけれど、そのニュアンスはだいぶ異なる。ドストエフスキーのものはどこか不気味で、「本文では人間の暗部や苦しみのようなものが描写されるのではないか……」と予感させられる。一方トルストイの場合、聖書からのエピグラフの多くは、「戒めの言葉」として文字どおりに受け取ってよいのだろう、と思える。エピグラフの機能のしかたとしてはトルストイのほうがわかりやすいと言えようか。
たとえば以下は、ドストエフスキー『悪霊』の巻頭に置かれたエピグラフ。
そして以下はトルストイ『クロイツェル・ソナタ』のエピグラフ。
2つめのエピグラフは新約聖書「マタイによる福音書」からの引用で、イエスが弟子たちに離縁について語っているくだり。この前の節でイエスが、「夫と妻は一体であり、離縁してはならない。もし、夫が妻を離縁して他の女性を妻とするのならば、それは姦通の罪である」と述べたのに対し、弟子が「もし夫婦の関係がそのようなものであるのなら、妻を迎えないほうがましです」と答えた。するとイエスは「この(私の)言葉を受け入れることができるのは、恵みを与えられた者だけである」と言った…という場面である。(★9)
『クロイツェル・ソナタ』の「あとがき」でトルストイは、「恋愛およびそれに伴う肉的関係」は「人間にとって恥ずべき動物的状態」であり、「恋愛の対象との結合によって達しられるものは一つもない」として、「姦淫」のみならず性愛そのものを強く否定し、戒めている(★10)。冒頭のエピグラフとあとがきで、激しい情欲と嫉妬の末に妻を殺した男性の物語をサンドイッチしている格好である。
トルストイの作品には、聖書からの同じエピグラフを別の作品に用いている例もちらほら見える。たとえば上の『クロイツェル・ソナタ』の1つめのエピグラフは、戯曲『闇の力』(1886)にも置かれている。『闇の力』にはもう1つ別のエピグラフ(同じマタイ伝の次の節)が並べられていて、こちらも強力。
ドストエフスキー、トルストイの全集をひととおり見終えた。欠けている巻の作品を文庫本で確認し、文庫版の『チェーホフ全集』(★12)をいちおうすべてめくる。恐らくチェーホフの作品にはエピグラフは皆無。
エピグラフ旅日記(9月)
9月某日(1)
今日も駅前の、ショッピングモール上階の図書館へ。個人全集を探して、棚に並んだ背表紙を左から右へ順に見ていく。
『トーベ・ヤンソン・コレクション』全8巻(★13)。「ムーミン」シリーズが有名な著者の、「ムーミン」以外の作品を集めた叢書。エピグラフは第6巻『太陽の街』に1つ見つかったのみ。
何冊か置いた隣に同じトーベ・ヤンソンの単行本『島暮らしの記録』(★14)を見つけ、つい手にとってしまう。50歳を過ぎたヤンソンが、親友の芸術家トゥーティとともに、クルーヴハルという小さな島(というより「岩の床」のような岩礁)に小屋を建て、住みはじめる日々の記録。トゥーティとは、この本の挿絵を描いているトゥーリッキ・ピエティラのこと。
私は長い間この本を偏愛していて、3冊か4冊、買っては人にあげ、また買っては人にあげているうちに入手できなくなり、図書館で借りて全ページコピーしたものを手元に置いていた。何年か前に、敬愛するデザイナーとものづくり作家のお二人が東京から小さな離島に引っ越された時は、ヤンソンとトゥーティの「ものをつくりながら島に住む」姿がどうしても重なって思われて、もう1部コピーをつくって送りつけてしまった。
改めてひらいて見ると、扉の裏、つまり多くの書物でエピグラフが置かれる場所に、数字の並んだ紙片の画像が印刷されている。これは……言葉で書かれたものではないが、「もの言わぬエピグラフ」と捉えてもよいのではないか……?
この画像については、巻末、訳者の冨原眞弓さんによる「島暮らしをめぐる断章」の冒頭に記されていた。
これを読み、そうか、「風」もこの本の重要な登場人物であった、と改めて思う。巻頭に置かれ、島の暮らしを左右する「風」の存在と作者の思い入れを暗示しているわけで、やはりこの「ビューフォート風力階級表」の画像も、少なくとも「エピグラフ的なもの」とは言えるのではないか。
左側のページをめくると、本文が始まる。いつ、何度読んでも、心の中へゆっくり落ちてゆき、落ちすがらにととのえていってくれるような書き出し。
閉館時刻が近づく中、『ゲーテ全集』(★18)をできるところまで確認して、今日は終了。