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【科学者#078】知的好奇心が旺盛で筆まめだった精神分析の創始者【ジークムント・フロイト】

哲学者のアリストテレスは「心は脳髄にあり」と言っており、一説ではこれが心理学の始まりだと言われています。

その後第65回目で紹介したルネ・デカルトによって、哲学から心理学を独立した学問にしていこうという動きがみられます。

そして、心理学という全く別の学問分野をジョン・ロックが確立したと言われています。

そんな心理学に、人間の行動は無意識によって左右されるという仮説をたてた自然科学者がいました。

今回は、知的好奇心が旺盛で筆まめだった精神分析の創始者であるジークムント・フロイトを紹介します。


ジークムント・フロイト

ジークムント・フロイト

名前:ジークムント・フロイト(Sigmund Freud)
出身:オーストリア帝国
職業:自然科学者・心理学者
生誕:1856年5月6日
没年:1939年9月23日(83歳)


業績について

フロイトは精神分析学の創始者になるのですが、フロイト自身は自然科学者で『科学』として精神療法を確立していきます。

そもそも精神療法とは、人間心理の理論と治療技法の全体のことを指します。

フロイトは、脳神経や精神の動きがすべて解明されさえすれば、人間の無意識の存在やその働きについても、すべて経験的な事実をもとにして明らかにできると信じていました。

現在ではフロイトの精神分析は臨床の場では行われるのは減ってきていますが、心理学、精神医学、心理療法などに大きな影響を及ぼしました。


生涯について

フロイトの父親は、毛織物商人のユダヤ人でした。

1859年の3歳の時には、ウイーンへ引っ越し、
1866年の10歳の時にはシュペルル・ギムナジウムに入学します。

1873年の17歳の時にはウィーン大学に入学し、2年間は物理学などを学びます。

その後は、医学者のエルンスト・ヴィルヘルム・フォン・ブリュッケ(1819年7月6日 - 1892年1月7日)の生理学研究所に入ります。

エルンスト・ヴィルヘルム・フォン・ブリュッケ



そこでは、両生類や無顎類(むがくるい)の脊髄神経細胞を研究したり、脳性麻痺や失語症の臨床研究もします。

1881年の25歳の時にはウィーン大学を卒業し、1882年の26歳の時にはのちの妻であるマルタ・ベルナイスと出会います。

1884年からの2年間はコカインを研究し、コカインを局所麻酔薬として使用することを思いつきます。

そして、友人の眼科医たちと共にコカインを使用した手術に成功します。




しかし、のちの1886年に各地でコカインの中毒性が報告され、フロイトたちは医学界から不当な治療を広めたとして不審な目で見られるようになってしまいます。

1885年の29歳の時には、留学のための奨学金が与えられパリへ行きます。

そこでは、ヒステリーの研究で有名だったジャン=マルタン・シャルコーのもとで、催眠によるヒステリー症状の治療法を学びます。

ジャン=マルタン・シャルコー

1886年には帰国し、「男性のヒステリーについて」という論文を発表します。

しかし、当時はヒステリーは女性の病気とされていたため、周りからは大きな反発を受けます。

さらに、解剖学者のテオドール・マイネルト(1833年6月15日 - 1892年5月31日)もフロイトの考えに反対します。

テオドール・マイネルト

同じ年の30歳の時には、ウィーンで催眠によるヒステリーの治療を一般開業医として実践しだします。

この当時は、ユダヤ人は大学で教職を持ち研究者となることが困難だったので、フロイトも開業医として生計を立てつつ研究を続けます。

その中で自由連想法にたどり着き、これを毎日患者に施すことですべて思い出すことができると考えました。

そしてこの治療法を精神分析と名付けます。

1889年には、催眠カタルシスの先輩であるヨーゼフ・ブロイアーと共同研究を始めます。

ヨーゼフ・ブロイアー

1895年の39歳の時には、「ヒステリーの原因は幼少期に受けた性的虐待の結果である」と発表します。

そして、患者が無意識に封印した内容を回想し、言語化して表に出すことができれば消滅するというお話し療法にたどり着きます。

1896年には父親が亡くなり、フロイトは強い衝撃を受け不安症が悪化し、友人のヴィルヘルム・フリース(1858年10月24日 - 1928年10月13日)へ依存していきます。

これにより、フリースが分析者となり自己分析と夢分析を行います。

1897年4月頃には、フロイトはフリースへの怒りと敵意を自覚し始め、フリースを頼らなくなり、1900年夏にはフロイトとフリースはお互いに批判し合い、1902年の夏の終わりには完全に決別してしまいます。

フロイトとフリース

1902年には、ヴィルヘルム・シュテーケル(1868年3月18日 - 1940年6月25日)やアルフレッド・アドラーを招待して「心理学水曜会」という集会が開かれます。

アルフレッド・アドラー

その後この集会は、1908年には国内外から参加者が増えていき「ウィーン精神分析協会」と名乗るようになります。

1907年には、この集会にスイスから参加していたカール・グスタフ・ユングにフロイトは特別な期待をかけるようになります。

カール・グスタフ・ユング

1909年には、クラーク大学から博士号を授与されます。

1910年には、フロイトは「国際精神分析学会」創立時にユングを初代会長に就任させます。

しかし、フロイトとユングは無意識に対する学問的な見解の違いから次第に距離を置くようになり、1914年にはユングは国際精神分析学会を脱退します。

1918年に第一次世界大戦が終結し、フロイトは戦争神経症の患者を多数診察していました。

当時のフロイトは、インフレのため困窮ししていたので、フロイトのもとに集った若い研究者たちの支援により支えられていました。

1923年には、長年フロイトを支えていたオットー・ランクが離れてしまいます。

オットー・ランク

1930年9月には母親が亡くなり、1933年には25年間も付き合いがあった友人のフェレンツィ・シャーンドルが亡くなってしまいます。

フェレンツィ・シャーンドル

1932年にはナチスによるユダヤ人の迫害が厳しくなったため、1933年までにはフロイトの友人たちは国外に亡命します。

しかし、フロイトは亡命せずに残っていたのですが、1938年6月にはロンドンへ亡命し、1939年9月23日に癌により亡くなってしまいます。


フロイトという科学者

フロイトはロンドンへ亡命したとき、そこで毎日4人の患者の分析治療を行います。

最後まで、患者と向き合い研究を続けたフロイトは、知的好奇心が旺盛で、古典やギリシャ哲学が好きで、特にシェークスピアを好んで読んでいたと言われています。

さらに筆まめで、友人や恋人、弟子たちと多くの手紙を交わしていました。

そんなフロイトは、精神分析の創始者として様々な科学者に影響を与え、共同研究をしたり、時には考え方の違いから決別してしまいます。

今回は、知的好奇心が旺盛で筆まめだった精神分析の創始者であるジークムント・フロイトを紹介しました。

この記事でフロイトについて少しでも興味を持っていただけると嬉しく思います。


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