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【科学者#040】ナポレオンの崇拝者で電池の生みの親である科学者【アレッサンドロ・ボルタ】
1800年に発明されたボルタ電池は、当時の科学界に衝撃を与えたと言っても過言ではないと思います。
第33回目で紹介したマイケル・ファラデーもそのひとりで、21歳のときに「ブリタニカ百科事典」に載っていたボルタの電気実験に強い興味を抱き、自分でもやってみたいと思うようになります。
今回はナポレオンの崇拝者で電池の生みの親である科学者、アレッサンドロ・ボルタを紹介したと思います。
アレッサンドロ・ボルタ
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名前:アレッサンドロ・ボルタ(Alessandro Volta)
出身:ミラノ公国(イタリア北部)
職業:物理学者
生誕:1745年2月18日
没年:1827年3月5日(82歳)
業績について
ボルタ電池は中学校の理科でも学ぶ化学電池で、仕組みは2種類の金属をイオンになる液体(電解質の液体)につけることで電気を発生させる仕組みになります。
1780年にイタリアの解剖学者でルイージ・ガルヴァーニ(1737ー1798)が、解剖したカエルの足の筋肉に電気が流れて筋肉が痙攣(けいれん)する現象を発見します。
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ガルヴァーニは、電気の源を筋肉自体にあるという説を唱え、これを「動物電気」(ガルヴァーニ電気)と名付けます。
ボルタは1791年からこの現象を研究し、1800年にボルタ電池を発明し、ガルヴァーニの説を否定しました。
当時、この動物電気(ガルヴァーニ電気)とボルタ電池は、どちらが正しいのか科学者の間で論争となりました。
ちなみに、ボルタが作った電池は、亜鉛と銅の2種類を使い、液体は硫酸または食塩水を使っていました。
生涯について
ボルタの両親は裕福な環境ではなく、幼少期のボルタは公立学校で教育を受けました。
4歳のとき、家族はボルタのことを知的障がいがあると確信していました。
しかし7歳のくらいまで育つと、他の子どもたちと変わりなくなっていました。
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そして、ボルタは14歳になるまでには物理学者となる決心をしていました。
成長したボルタは、1774年にコモ国立ギムナジウム(ヨーロッパの中等教育機関)の物理学の教授になります。
1775年には、1764年スウェーデンのヨハン・ヴィルケ(1732ー1796)が発明した、静電誘導を利用して電荷を集める器具である電気盆を改良します。
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1776年から1777年には、沼に発生する発火性のガスが、水とは異なるものであることを発見します。
そして密閉容器にこの気体を入れて、電気火花で燃焼させる実験を行います
。
実はこの気体は、のちにメタンであることが分かり、ボルタはメタンの発見者として知られています。
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さらにボルタは、電位と電荷(粒子や物体が帯びている電気の量)を分けて研究する手段を確立し、静電気量(どのくらい電荷が蓄えられるかを表す量)の研究を行います。
そして、電位と電荷が比例することを発見します。
この業績により、1881年に電位差の単位(電圧)が、ボルタに敬意を表してボルト(V)と名付けられることになります。
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1779年には、パヴィア大学で実験物理学の教授になり、25年間勤めます。
1794年には、テレーザ・ペレグリーニと結婚し、2人の間には3人の息子が誕生します。
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1791年には、ルイージ・ガルヴァーニが動物電気と名付けた現象を研究し始める。
この動物電気は、2種類の金属をカエルの脚に接触させると筋肉が痙攣するという現象で、ボルタはカエルの脚が電解質であるため、起こった現象ではないかと考えます。
そしてボルタは、カエルの脚の代わりに食塩水に浸した紙を使い、それを2種類の金属で挟むことで電流が流れることを確認します。
これにより、電解質を挟んだ2種類の金属の電極は2つの電極間の電位差であるというボルタの法則を発見します。
1800年にはボルタ電池を発明し、動物電気はカエルの筋肉自体に蓄えられたものであるというガルヴァーニ説を否定しました。
当時このボルタ電池は、食塩水を入れたワインゴブレットに2種類の金属電極を入れたもので、最も発電効率が良い金属電極の組み合わせは、亜鉛と銀だったらしいです。
ナポレオンの崇拝者
ボルタは、実はベンジャミン・フランクリン(1706ー1790)とナポレオン・ボナパルト(1769-1821)の崇拝者でした。
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1801年に、ナポレオンにパリへ招待されたボルタは、電池を用いた実験を行います。
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その後ボルタはフランス学士院の準会員になり、のちにイタリア王国の上院議院になります。
その後1810年には伯爵を与えられます。
1815年には、ナポレオンはボルタに敬意を表して、パドヴァ大学の哲学教授に任命するのですが、4年後に辞任してしまいます。
その後1819年からはコモ近辺のカムナーゴに住み私生活に専念し、1827年に亡くなってしまいます。
ボイルという科学者
エレクトロフォラス・ボルタイという電気ウナギがいるのですが、この電気ウナギは地球上の動物で最も強い860ボルトの電気を生み出します。
実はこの名前はボルタにちなんで名づけられました。
そのくらい、電気、電池と言えばボルタというくらいに、現在でも有名ですし、当時の科学界には衝撃が走ったのではないでしょうか。
そしてこの電池ができたことにより、第24回で紹介したハンフリー・デービーの電気分解による元素の発見へとつながっていきます。
今回は、ナポレオンの崇拝者で電池の生みの親である科学者、アレッサンドロ・ボルタを紹介しました。
この記事で少しでもボルタについて興味をもってもらえると嬉しいです。