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【科学者#037】実験的に熱素説を否定し、貧民救済など広い分野で才能を振るった科学者【ベンジャミン・トンプソン】

目に見えるものというのは存在が確認できればいいのですが、目に見えないものの存在を証明することも、否定することもとても難しいです。

特に熱の分野では、物体の温度変化を熱素という物質の移動により説明する熱素説(カロリック説)が有力だった時代があります。

今回は、実験的に熱素説を否定し、貧民救済など広い分野で才能を振るった科学者ベンジャミン・トンプソンを紹介します。


ベンジャミン・トンプソン

トンプソン

名前:ベンジャミン・トンプソン(Benjamin Thompson)
出身:アメリカ
職業:化学者・政治家
生誕:1735年3月26日
没年:1814年8月21日(61歳)


業績について

トンプソンは14歳のときに貿易商に奉公に行くのですが、その時火薬の実験を数多くこなしており、火薬の知識が豊富でした。

その後、イギリス軍のために火薬の爆発力の実験を行い、その結果を王立協会に発表しています。

そして、大砲の砲身(ほうしん)の中をえぐる工程で発生する摩擦熱が、熱素説では説明できないことを示し、熱素の考えにはじめて実験的反証を突きつけました。

これにより熱力学に先駆けて業績をあげ、その後の熱分野の発展に貢献しました。

そもそも熱素説というのは、科学者シリーズ第28回目で紹介したラヴォアジエが1777年に発表し、1789年に出版した『化学原論』で完成された説のことをいいます。



生涯について

トンプソンは、颯爽たる長身と美貌を持っており、話し上手だったといわれています。

トンプソンの父方の祖父であるジェームズ・トンプソンは、七年戦争でフランスとインディアンと戦いました。

父親はトンプソンが生まれて20ヶ月後に亡くなっており、母親はトンプソンが3歳の時に再婚しています。

子どもの頃は、数学に特に熱心で、力学と自然哲学に興味を持っていました。

14歳の時には、セイラムの貿易商に奉公に出ていて、そこでは火薬の実験を日々行っていました。

1769年にはボストンのホープスティルカペンに(Hopestill Capen)雇われます。

1772年、長身で美しい年上で裕福な女性であった未亡人のサラ・ロルフに気に入れられ、1773年に結婚します。

当時トンプソンは19歳、サラは33歳で、1774年10月18日には子どものサラが誕生します。

その後、妻と植民地の総督が親交があり、トンプソンはニューハンプシャー軍の士官に任命されます。

そして、アメリカ独立戦争が始まり、トンプソンは王党派にたち、独立軍と戦おうとしたのですが、独立派に自宅を襲われてしまい、1776年に妻子を見捨ててイギリス側に逃亡します。

トンプソンは独立軍の情報を持っていたため、イギリスでは歓迎され騎兵隊長として独立軍と戦います。

さらに、トンプソンはイギリス軍のために火薬の爆発力の実験を行います。

この時の結果を、王立協会のフィロソフィカル・トランザクションに発表し、高い評価を得ます。


1783年にはドイツに移り、11年間ミュンヘンで暮らします。

そこでは、神聖ローマ帝国のバイエルン選帝候カール・テオドールのために軍制改革と貧民のための社会事業を行います。

カール・テオドール

このときトンプソンは、軍務大臣、内務大臣、宮内大臣(くないだいじん)を勤め、軍事、教育、衛生、住宅、病院事業、貧民救済など幅広い分野で才能を振るいます。

ミュンヘン中心部にある大規模な公園であるエングリッシャーガルテンを作ったのもこの時期になります。

1791年には、神聖ローマ帝国からランフォード伯の称号を得ます。


1796年、この年の4年前に妻はなくなっていたので、娘のサラを自分のところに呼び寄せます。

サラ・トンプソン

この娘のサラは、その後バイエルン選帝候より爵位を継承し、年金支給を許されます。

そしてアメリカのコンコードに居住して慈善活動を行い、アメリカに在住した最初の女伯爵となります。


1799年には、トンプソンはイギリスに王立研究所を設立します。

1804年からは、フランスのパリ近郊に移り住み、翌年の1805年10月24日には、マリー=アンヌ・ピエレット・ポールズと再婚します。

ちなみにマリー=アンヌは、熱素説を提唱しギロチンで処刑されたラヴォアジエの妻になります。

マリー=アンヌとラヴォアジエ

この2人の結婚生活は長くは続かず、1809年6月30日に離婚してしまいます。

トンプソンの最後は、パリに近い小さな村であるオーティーユに籠り孤独のうちに亡くなってしまいます。



トンプソンという科学者

トンプソンは、バイエルン選帝候に使えていた時代に、産業の家というのを設立しています。

ここでは、ミュンヘンの乞食や貧乏人を収容して、仕事を覚えさせてるかわりに、慰安を与え、わずかな給料を支払っていました。

これは、自活できる人間に教育し直して社会に戻すという役割を担っていました。

多いときには、1日で2600人もの浮浪者を集めました。

トンプソンは、奉公先で火薬の技術を身に付け、その技術を使い科学者として、そして政治家としての地位を築き上げ、様々な分野で活躍しました。

トンプソンの業績により熱素説に疑問を持つことで、さらに熱力学が発展していたっと言っても過言ではないのかもしれません。

今回は、実験的に熱素説を否定し、貧民救済など広い分野で才能を振るった科学者ベンジャミン・トンプソンを紹介しました。

この記事で、少しでもトンプソンについて興味を持ったもらえたのなら嬉しいです。

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