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【科学者#028】市民に誤解されギロチンで処刑された近代化学の父【アントワーヌ・ラヴォアジエ】
1794年のフランス革命のとき、あるひとりの科学者がコンコルド広場にあるギロチンで処刑されました。
天文学者ジョゼフ・ルイ・ラグランジュは、「彼の頭を切り落とすのは一瞬だが、彼と同じ頭脳を持つものが現われるには100年かかるだろう」と残しています。
今回は、市民に誤解されギロチンで処刑された近代化学の父であるアントワーヌ・ラヴォアジエについてです。
アントワーヌ・ラヴォアジエ
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名前:アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエ
(Antoine-Laurent de Lavoisier)
出身:フランス
職業:徴税請負人、化学者
生誕:1743年8月26日
没年:1794年5月8日(50歳)
業績
質量保存の法則
ラヴォアジエは中学校の理科で学ぶ、化学反応の前後では質量が変化しないという質量保存の法則を発見しました。
1768~1769年にペリカンの実験を行い、1774年1月にこの実験より質量保存の法則を発見しました。
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このペリカンというのは、形が鳥のペリカンに似ていることから名づけられた蒸留器のことを言います。
このペリカンの実験は、水をガラス容器に入れて密閉状態で沸騰させ、101日間後正確に重さをはかる実験になります。
この実験により、当時考えられていた「水は土に変化しうる」という説を否定しています。
さらに1774年4月には、レトルトにスズを入れて加熱し、燃焼によりできたスズの灰の重さを比較する「レトルトの実験」を行い、第11回で紹介したロバート・ボイルが提唱した「火の粒子(フロギストン)」は存在しないと判断しました。
生涯について
ラヴォアジエの父親は裕福な弁護士でした。
そして、母親はラヴォアジエが5歳のときに亡くなっており、ラヴォアイジは莫大な遺産を引き継ぎ、叔母のもとで育てられます。
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1754~1761年にはマザラン学校に通い、化学、植物学、天文学、数学を学び、その後は父親の職を継ぐため法律家を目指します。
1761年、パリ大学の法学部に進学します。
そこでは、天文学、博物学、植物学、地質学、鉱物学、化学などの自然科学に興味を持ちます。
1763年に学士号を取得し、1764年に弁護士試験に合格して高等法院法学士になります。
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1766年、パリ科学アカデミーが「都市の街路に最良な夜間照明の方法」というテーマで論文を募集します。
そして、1766年4月9日にラヴォアジエの論文が一等賞を取ります。
この業績もあり、1768年5月18日にパリ科学アカデミーの会員になります。
ラヴォアジエの職業
1768年からは徴税請負人の仕事に就きます。
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この徴税請負人とは、市民から税金を取り立て国王に引き渡すという仕事です。
さらに、自分も高収入を得ていたので、当時の市民からは憎まれていた職業でした。
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1771年12月6日には、徴税請負人長官の娘であるマリー=アンヌ・ピエレット・ポールズと結婚します。
ちなみに、ラヴォアジエは当時28歳で、マリー・アンヌは13歳でした。
このマリー・アンヌは、夫であるラヴォアジエの役に立とうと英語、ラテン語、イタリア語、化学、絵画の書き方を学びます。
さらに、論文や手紙をラヴォアジエのためにフランス語に翻訳したり、実験の際には非常に細やかな点までスケッチに記録を残す手伝いもしていました。
1772年には貴族の地位をお金で手に入れます。
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1775年火薬硝石公社の火薬管理監督官になり、1776には兵器廠に移り住み、そこに実験室をつくり様々な実験を行います。
科学的研究
ラヴォアジエはお金には困らない生活をしていたので、腕のいい職人に対して細かい指示を出し、数々の実験器具を特注しました。
そして、それらの実験器具を使って、きわめて精度の高い定量的な測定につとめました。
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1777年には、燃焼は「物質と気体が結合する」ことを説明します。
そして、1779年にこのときの気体を「oxygène(酸素)」と名付けます。(実際は水素イオンと結合したもの)
1787年ラヴォアジエは、クロード・ルイ・ベルトレー(1748-1822)、
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ルイ=ベルナール・ギトン・ド・モルボー(1737-1816)、
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アントワーヌ・ド・フルクロワ(1755-1809)
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と共に「化学命名法」を表します。
この中で、物質の命名法を定め、そして水の成分が酸素と水素であると記します。
水の成分が酸素と水素であるとこは、実は第23回で紹介したヘンリー・キャヴェンディッシュが既に発見していたのですが、優先権の主張はしませんでした。
1789年には「化学原論」を出版して、33の単一物質(元素)を示します。
ちなみに「化学原論」の内容は、
第一部 気体の生成分解
第二部 塩基や酸・塩
第三部 化学の実験器具とその操作・質量保存の法則
になります。
投獄、そして処刑
1787年、フランスのオルレアンの地方議会で第三身分の代議員になります。
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1789年7月14日バスティーユが襲撃され、フランス革命が進行します。
その頃ラヴォアジエはパリで貴族階級の補足代議員を勤めていました。
1792年には、政府関係の職を全て辞任し、パリ科学アカデミーの活動に専念します。
しかし、フランス革命によりアカデミーは閉鎖されてしまいます。
1793年11月24日、徴税請負人を全員逮捕すべく指名手配されたため、ラヴォアジエは自首したのですが、徴税請負人の娘と結婚していたこともあり投獄されてしまいます。
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1794年5月8日に、フランス人民に対する陰謀の罪で死刑が決定し、その日のうちにコンコルド広場にあるギロチンで処刑されます。
実はラヴォアジエは、そこまでひどい徴税はしていませんでした。
むしろ税を減らそうと努力をしていました。
そんなラヴォアジエの処刑を嘆き天文学者のジョゼフ・ルイ・ラグランジュ(1736ー1813)は、「彼の頭を切り落とすのは一瞬だが、彼と同じ頭脳を持つものが現われるには100年かかるだろう」と言い、他にも多くの科学者がラヴォアジエの処刑を悲しみました。
ラヴォアジエという科学者
ラヴォアジエは亡くなる直前に妻に手紙を書いており、その中で
「私は非常に幸せな人生を送って来られた。そして私の思い出にはいくらかの栄光が伴うと信じている。それ以上何を望むことがあろうか。今回の出来事(処刑)は私に老年の不如意を免れさせれるだろう」
と残しています。
潤沢な資金があったことで、より優れた実験器具を作ることができ、そして多くの業績を残してくれた科学者であるアントワーヌ・ラヴォアジエ。
その最後は、市民のため税を減らそうと努力はしていたのですが、徴税請負人という職のためギロチンで処刑されました。
もしかしたら、フランスの情勢が安定しており、ラヴォアジエが研究し続けることができていたのならば、さらに様々な業績を残していたのかもしれません。
今回は、市民に誤解されギロチンで処刑された近代化学の父であるアントワーヌ・ラヴォアジエについてでした。
この記事で、少しでもラヴォアジエのことに興味を持っていただけると嬉しいです。