坂口安吾に近づく関裕二
関裕二の新作『アマテラスの正体』と昨年の『スサノヲの正体』はついに坂口安吾の歴史論にまた一段と近づいたようだ。
坂口安吾は晩年、日本史に関する歴史論を書いている。その中の一つに「飛騨・高山の抹殺」というのを書いていて、若いころに魅せられて読みふけったことを覚えている。
それがいつまでも、引っかかっていて調べ物をしたり、日本書紀を読み直してみたりするのだけれど、うまくまとまらない。
かつて、栗本慎一郎がNHKの番組のひとつとして取り上げていて、それをテレビ画面上で撮影して、何度も見直していた。安吾の古代史の専門家は無視しているが、そこは評価されてよいのではないかという番組だった。VHSなので、いまでは再生装置がないので、確認できないのだけれど、おそよ二つのことを言っていた。
それは日本書紀の記述というか構成が、①東と西が逆になっているということ②何代もの天皇なんていなくて、せいぜい天智天皇まで百年にも満たないのだ。おなじエピソードを、手をかえ品を変えて繰り返しているのだ、ということだった。
そこは、製作者側の都合がいいようにというので、藤原不比等、持統天皇の都合がいいように作っている。
昨今の歴史学では日本書紀の研究が進み、日本書紀が歴史書というより、藤原氏にとって都合がいいように改変された政治文書だという解釈が叫ばれている。
関裕二は何度もそれを繰り返している。
それを、関裕二の最新作をもとにどこまで、坂口安吾の認識へと近づいてきたかを比較してみようというのが、このエッセイの試みだ。
関裕二のの古代史復元の仮説
ヤマト建国についての仮説をこのように要約して述べている。
何度も同じことをいっているのだけれど、比較的よくまとまっているので、その部分を引用したみる。
弥生時代後期、まとまった勢力というのは、北部九州、出雲、タニハ、越、吉備、東海、近江を中心とする勢力であったという。出雲と越に挟まれたタニハというのは、(但馬、丹波、丹後、若狭)の勢力を指しているが、それが出雲と越の両方から攻められることになった。そこで、タニハは近江と東海へと手を伸ばし、朝鮮半島からの文物を流した。そして、東海・近江の勢力は力をつけ、「おおやまと」に乗り込んだというのだ。
あわてた吉備は河内に拠点を設けたというのだ。
この動きが、ヤマト建国の事情であって、ひとりの王が武力によって制圧し建国するのではなく、いくつかの勢力が、奈良盆地の纏向に集結して、連合政権のような政治的中心を形成したという形態は、その説明に縄文人の文明拒否説をとるけれど、そこは文脈と違うので、深入りはしない。
なぜだかわからないけれど3世紀の初頭に、纏向に人々が集まりだして、宗教・政治に特化した都市が建設されだしたのだ。
北部九州は富を一番蓄えていたが、この動きに乗り遅れてしまって、逆にタニハ、東海・吉備、出雲、越の勢力に攻められることになったという。
邪馬台国が東遷したのではなく、ヤマトの勢力が北九州に乗り込んだのが、真実であり西遷したのだ。偽のヤマトを名乗る邪馬台国を攻めたということ。
つまり、東と西が逆になっている。
この事実は、考古学的に証明できるという。
発掘された土器が各地でつくられた土器の出土%で示している。つまり、地元産の土器以外の土器の比率である。纏向には北九州産の土器はすくなく、東海産がおおい。一方北九州からは、日本海側の土器から近畿系、吉備系の土器までが多数発掘されている。
邪馬台国が東遷して、ヤマトを建国したなら、なぜ北九州産の土器が少ないのかということ。
つぎに、北部九州攻めの立役者は仲哀天皇と神功皇后だけだけれど、景行天皇(オオタラシヒコオシロワケ)成務天皇(ワカタラシヒコ)仲哀天皇(タラシナカツヒコ)神功皇后(オキナガタラシヒメ)は実在しなくて、仲哀天皇というのは、北部九州攻めの将軍ではなかったかという。
そうすると、崇神、垂仁、ときて応神だったのではないかという。
関裕二は神武=崇神で同時代の人と見るけれど、実際は神武=応神なのだという。
関裕二の古代史の復元を図にしてみると次のようになるだろうか?
ヤマト建国の隠すべきエピソードの一つはヤマト建国が、タニハ(丹波?)東海・近江が中心に成し遂げ、そこに吉備もくわった。そして急いで出雲・越も加わったということであり、そこでの連合政権とでもいうようなものを持統・不比等は否定することにあったのではないか。
このヤマト建国のエピソードが何度も繰り返されて、日本書紀の中にちりばめられているというのだ。
(ちなみに神功は白村江の戦いのときの女傑がモデルではないかと言っている。)
ヤマト建国のエピソードが、手を変え品を変えて繰り返されているのだというのだ。このことは神話の場合でも同じことだが、例えば天稚彦の神話も仲哀が北九州攻めに行って卑弥呼を倒したが、自分が王になりたいと画策し、逆にヤマトの勢力にしっぺ返しされたというエピソードの焼き直しということが言えるのではないか。
この仮説は関裕二の古代史の復元だけれど、坂口安吾では②の主張と通じている。同じ話をなんども繰り返しているのだ。そんなに重大な隠すべきことは二ッや三つぐらいで、多くても五つぐらいだろうと言った坂口安吾の推論説は正しいのではないだろうか。
坂口安吾の『飛騨・高山の抹殺』は壬申の乱を扱っていて、戦場は近江でも大和でもなく、飛騨・高山にあったとする説だが、大海人皇子は、吉野から逃げ出したのではなく、むしろ大友皇子を追撃したのだと読める。
東と西が逆なっているというのは、伊吹山を挟んで西に攻めたのではなく、東に攻めたというのだ。
このように書いている。
ヒダを中心に東と西が逆になっていると指摘したのだ。
この成否は怪しいが、この日本書紀上の東と西が逆なっているというのは、さきの神武東征というのが、むしろ神武西佂というべきで、ヤマトの勢力が邪馬台国を攻めていたのだ。
ただし、天智、大友が西の勢力かというとそうではなく、おそらく東の勢力の同族であって、これは関裕二の指摘した、尾張勢力の分裂というのがカギを握っている。同族内の権力闘争だったのだ。だからそれを隠すために、日本書紀は工夫をこらして、話を逆にしてしまった。
このように、東と西が逆である。何度も同じエピソードを繰り返しているという二点において、関裕二は安吾説に接近してきているのだ。
ところで、蛇足ながら、垂仁の次が応神だったとすると本当にタラシ系の皇子なのだろうか?
垂仁天皇条には「ホムツワケ」という子があり、皇后は狭穂姫(サホヒメ)とある。つまりタニハ系だ。
応神天皇は「ホムタワケ」で一字違いだ。しかし、日本書紀ではタラシナカツヒコ(仲哀天皇)とオキナガタラシヒメ(神功皇后)の子だというので、タラシ系というこになる。出自がタラシ系なのに、なぜタラシが入っていないのかというと、生まれた時に肉が腕の上に生じ。その形が鞆(ホムタ)のようだったことによると言っている。ホムタとは弓を射るときに左手首につける丸い革製の道具であるから、この肉の盛り上がりがっていたからというのであるが、どうもおかしい。説明になっていない。
また、ホムツワケは成人になっても口を利くことができず、長いひげが生えるころになっても泣いてばかりいたとあり(これもスサノヲと同じ)、逆にホムタワケは幼くして聡明で奥まで見通す深慮があり、立ち振る舞いに聖帝のおもむきがあったとされている。まるで真逆だけれど、これも坂口安吾の筆法によれば、二人で一人というあの表現方法なのかもしれないと思うと、関裕二の北九州で敗れて南九州に敗走した貴種が神武だという説明は、納得しがたい。
崇神期の疫病による大物主神の祟りをおさめるのにはオオタタネコ(太田田根子)をよびよせたのではなかったか? なぜ、南九州から神武(カンヤマトイワレヒコ)を呼び寄せたとするのだろう。ここには、神武東征という神話と応神のヤマトへの帰還が同じようなコースをたどっているという着想から始まっているからだろう。
しかし、天孫降臨の地が全国いたるところにあって、なぜ南九州説を日本書紀がとったのかということはわからない。九州ではないという説は、例えば前川豊は東三河であったといい、大杉栄は四国山上説だった(邪馬台国もここだという説)澤田陽太郎は朝鮮半島南部の伽耶だという。田中英道は群馬県の御巣鷹山、高天原山だといっている。いずれも信憑性はうすいというのなら、日本書紀の南九州というのも同じではないだろうか。
これは安吾も言うように、「各国のあらゆる豪族と伝説と郷土史がみんな巧妙にアンバイされて神話(天智までの天皇紀を含めて)に取り入れられている」と考えた方がいいのではないだろうか。また逆に諸国に史家を派遣して郷土史に合わせてつじつまを合わせたと言ったほうが、いいのではないだろうか。
いずれにしろ、創作したのだけれど、まったく一から創作する能力は当時はなかったから、いろいろなテキストをつぎはぎして編集したと思われる。まったくのフィクションをつくるのは、平安時代の「竹取物語」まで待たねばならなかったから。
最後に、肝心のアマテラスに関して坂口安吾は「伊勢はここに祭られている神の本当の故郷ではありません。それは文句なしにハッキリしておりましょう」と断言している。