「どうせ死ぬのに、なぜ生きるのか」名越康文先生のお話を拝聴して
最近、アフターワークが充実しているお陰で、人と会うということが多くなってきた。いろいろな人と出会い、勉強できる機会が、学生時代のように、ここ数カ月で増えた。そして、いろいろな人の「力」に触れ、考えさせられている。
今回は、精神科医の名越康文先生の御講演でお教えいただいたことを、書き留めておきたい。
講座のテーマは、「どうせ死ぬのに、なぜ生きるのか」という、到底2時間で考えきることのできない深すぎるもの。そのテーマを、名越康文先生は、昨今のCOVID-19を取り巻く社会情勢への危惧、社会に蔓延る分断の危機から語ってくださった。
今、社会は、世界は、排除と分断の連続だ。
COVID-19が世界を覆ったことで、その動きに拍車をかけ、いろいろなものに亀裂が入ってしまった。
見えない得体の知れないウィルスが蔓延し、我々は、そのウィルスから身を守ろうと、様々な対策を取る。しかし、対策の不確かさや、人々の意見の相違が、不安や恐怖を伝播させることになり、相違が深まりを生むはずが、相違が分断を呼び起こし、悲しみと怒りで世は覆われていくことになる。
そして、人はみな、老若男女わず、こう自問していくようになる。
「なぜ、生きるのか」
「生きるとはどういうことか」
見えないウィルスを前に、「どうしてこうも弱いのか…」と、ため息が出てしまうほど、人間の脆さが露呈した。
その反面、生き物は、繋がってしか生きられないという事実が、こういった形で思い知らされてしまうことになる。
病気になり、命が途絶え、経済が破綻し、働く場所を次々と奪われ、人間同士が争いあい、、、。
だからこそ、今こそ、死生について向き合い、問い続ける「宗教」や、人間の本来の姿である「哲学」が、必要とされているのである。
「三句の法門」
これは、大日経というお経にある教えだそうで、名越康文先生からこの教えの魅力をお教えいただいた。
このお経には、こんなことが書かれてあるようだ。
ひとつ、菩提心を持つこと
ふたつ、大悲を持つこと
みっつ、方便を考えること
さて、菩提心、大悲、方便とは何か。
まず、菩提心をもつということは、字のごとく、菩薩になろうと決心すること。つまり、日々、心を成長させるということ。満足しないということ。いくつになっても成長するということを忘れないこと。
そして、大悲をもつとは、人の悲しみに触れ、どんな人にでも共有しえない、分かり合えない苦しみがあるということを知り、それでもなお共有しようと想像力を働かせるということ。
最後に、方便を考えるとは、それぞれの人の悩みに合わせて、寄り添い、話を聴き、同じ方向を見つめながら、側にいるということ。
…だ、と、名越先生からお教えいただいた。そして、これを、「最高の死を迎えるための3つの方法」だと仰るのであった。
確かに、今の社会には、自分に問い続ける力、受け止める力、寄り添う力が欠けている。実際、私自身も、日々、自分に絶望してしまう。特に、「「分かり合えない苦しみがある」ことを知れ!」という言葉は、本当に腑に落ちた。
私自身、今まで、「苦しみ」は容易に理解し合えると思っていた気がする。
だが、実際は、ちがう。
COVID-19を取り巻く社会情勢にもあるように、ひとつの事象においても、それぞれの立場や個人によって、あるいは、置かれた環境によって、そこから生まれる苦しみや悲しみや怒りは違い、その事実を頭で理解できたとしても、到底に計り知れない苦しみがそれぞれにあるはずだ。
だからこそ、互いが聴きあい、寄り添いあう「方便」は、とてつもなく社会に影響を及ぼすことになるのだろう。
死は必ず訪れる。世は苦しみで溢れている。
だけれども、その死が訪れるまでに、他人の悲しみに触れ、計り知れない悲しみを想像し、寄り添い、生きていくということに、計り知れない意味がある。
心を成長させ、他者と共に生きていくことで、命を繁栄させることができる。きっとその「命」には言葉にならない意味で溢れていることだろう。