『そして誰もいなくなった』から知る古典の威力

 昔から、ミステリー小説が好きです。初めて本格ミステリに触れたのは、はやみねかおるの「夢水清志郎事件ノート」シリーズだったかな。主人公と一緒に推理していくのももちろん好きなのですが、謎に包まれたままエピローグを読み、謎がみるみる解けていく瞬間はゾクゾクが止まらない。快感と言っても過言ではないです。

 ミステリ小説には”古典”と言われている作品がいくつもあります。アガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』は言わずと知れた名作ですね。先日、やっと初めて読むことができたのですが、読んでいて(そして読み終わって)こう思いました。

 あれ…この展開、見たことあるんですけど…。

 例えば『うみねこのなく頃に』(竜騎士03)。絶海の孤島で、天候が荒れて邸から出ることが叶わない中遺産分配をめぐって争う親族たちが、次々と”人知を超えた”殺され方で消えていく…。いわゆる”クローズドサークル(外と連絡がとれない状況)”で起こる殺人事件です。絶海の孤島!クローズドサークル!そして最後、海をたゆたう小瓶がある日誰かに見つけられ、真実がさらされるところ(※真里亞のシーンです)なんかも、『そして誰もいなくなった』とほとんど同じ展開です。

 あとは、『インシテミル』(米澤穂信)。まあこの作品は、複数のミステリのパロディとなっていることが本文中でも触れられているので当然かもしれませんが、殺人が起こり人形が減っていく演出は『そして誰もいなくなった』に依拠しているんですよね。

 現代のミステリでも、こうした古典の名作を基としているトリック・展開は山ほどあります。これらを読むとき、「古典の展開を知っているか」が、作品を心の底から(作者の思い通りに)楽しめるかどうかを左右するのではないかと、私は思うのです。

 古典を知っている人間は、何かのパロディとなっている展開が出てきたとき、「ああ、このトリック、ナルホドネ」「この手掛かりはあの作品で言うとつまり…ウンウン」とにんまりしながら読み進めることができます。まるで、本当に仲の良い友人たちとだけわかる合言葉のようなものです。『赤毛のアン』でダイアナとアンが、夜中でもメッセージのやり取りができるように灯りを用いたのと同じノリですね。

★”教養”があると『終末のワルキューレ』も10倍は楽しめる

誰もが世代・国境を越えて了解している古典的作品は、今なお作られ続けている作品中に息づいていることが多いです。それを理解して「あ~あれね、ハイハイ」とニンマリし、そのモチーフの共有と理解がその場で行わためには、その作品に触れたまさにその瞬間に、教養と呼ばれる知識を身に着けておくことが必要なのです(と、戸田山和久が『教養の書』で言っていた気がします)。
ここでは、「まさにその瞬間に」というところがミソですよね。
なんかのモチーフが出てきて、「ん?これどういう意味?って気になって検索することは可能。でも、その物語や会話の瞬間の流れを断ち切ることになってしまい、検索の世界から物語に戻ってきた時には、その時に味わえるはずだった興奮は彼方に行ってしまっていると思うのです。
戸田山は『教養の書』にて、知識量が『ダイハード3』をより楽しむことを可能にすると説いていました。私は同様の現象を『終末のワルキューレ』(アジチカ,梅村真也,フクイタクミ)『リィンカーネーションの花弁(小西幹久)』で実感しました。
 この2つの作品は、ざっくり言うと、神話上の登場人物や過去を生きた偉人たちが、自分たちの持つ特徴や能力を活かして戦う物語です。これをただのアクション漫画として読むのか、神話や伝説上の人物が躍動する物語として捉えるのかで、だいぶ楽しみ方は変わってくると思います。

 こんな感じで、古典を知っていれば、作者と私の間でこっそり「にんまり」できるのです。

 古典の威力。それは、古典を知っている人に、その人達の間だけでこっそり「にんまり」し合うことを可能にすること。この快楽を知ってしまった私は、今後もこの古典のストックを増やすべく、日々名作を読み漁ってしまいます。

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