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精神保健福祉士【障がい者支援課主任の業務日誌〜呼出し過多】
この話は実際の支援を基にしたフィクションです。
オガワさん 40代 診断名:うつ病
夕方、役所が閉まる時間に、警察の生活安全課の春日さんから連絡があった。
「新井さ~ん、今日、これでオガワさんからの通報は3回目なんですよぉ。こちらも仕事ですから、呼ばれたら来ますけど、警察が対応するようなことがないんですよ。新井さん、ちょっと来てもらってもいいですか?」
オガワさんは40代の女性で、単身で生活している。うつ症状が悪化すると警察に連絡し、「死ぬ」「殺される」「助けて」などと話すが、警察が自宅に駆けつけると、お茶を用意して待っている。実際に自傷行為で血まみれで倒れていることもあるが、多くの場合は話し相手を求めて警察に連絡しているだけだ。
春日から連絡があるのは、オガワさんの精神状態が不安定だが、警察ではどうにもできない時だ。
新井「いつもの感じですね。今から行きますよ」
春日「すいませんね。それじゃ、新井さんが来たら私たちは帰りますので」
新井は向かいの席に座っている、4つ下の後輩の松山を見た。松山は時計を見て、ため息をつきながら「一緒に行けばいいんですよね」と、諦めたような声で言った。
電話から10分ほどでオガワさん宅に到着すると、玄関先には春日と他2名の警察官がいた。
春日は苦笑いしながら「来てもらって申し訳ないですね。でも、警察もこのまま放っておくこともできなくて。状況はいつもと同じです」と、簡単な言葉を交わし、警察とバトンタッチした。この地域の警察は気軽に役所に連絡してくれるのでありがたい。
家に入ると、オガワさんは散らかっているわけではないが、物が乱雑に置かれた部屋の片隅に体育座りでうなだれていた。新井と松山はオガワさんの目線に合わせて、腰を落とした。
髪の毛はぼさぼさで、化粧も当然していない。服も決してきれいとは言えず、恐らく数日同じ格好をしていたのだろうと思われる。自傷は今日はしていないようだ。
「今日は服薬していますか?」 新井はオガワさんの現状を直接尋ねることなく、少し突き放すように尋ねた。
オガワさんはだるそうに答えた。
「お金なくて病院まで行く交通費もないから、病院に行けないよ。だから薬切らしたまま。」
新井「障害年金、支給されてからまだ一ヶ月経っていないですよね?今回は何に使ったんですか?」
オガワ「お酒飲みに行ったら楽しくて。」
オガワさんは躁状態とうつ状態を繰り返している。新井は医者ではないので診断はできないが、診断名はうつ病となっているものの、躁状態が気になっていた。
オガワさんは躁状態になると警察や役所への連絡がなくなる。そんなときは外に出て遊んでいるようだ。しかしその後、うつ状態が始まる。病院に行くときはうつ状態がひどいため、主治医も躁状態についてはあまり認識していないのではないかと推測される。主治医がどの程度症状を把握しているのか、また主治医とのやり取りがどのようになっているのか確認するため、受診に同行したいが、新井は過去2回ほど当日ドタキャンされていた。
松山が優しい言葉で言った。 「オガワさん、オガワさんの身体が心配だからお酒も控えてほしいな。ちゃんとご飯は食べられているの?」
オガワさんは松山の優しい言葉に反応して、少し顔を上げた。
「知り合いがね、気を使って食料持ってきてくれるの。」
この知り合いが男性か女性か、年齢も全くわからない。本人に聞いてもはぐらかす感じだったので、飲み屋で知り合った男性ではないかと、新井と松山は邪推してしまっている。
新井「オガワさん、金がなくて食料もギリギリ、親族とも音信不通。次の年金までどうしますか?」
オガワ「それは~、バイトでもなんでもして頑張ろうと思う。」
新井「今、携帯電話は?」
オガワ「止まってる。」
新井「今、どこのバイトも携帯が通じないと難しいと思いますよ。」
オガワ「ねぇ、どうしよっか?」
松山が割って入った。 「就労継続支援B型の利用はどうですか?少しだけでも工賃も出ますし、何より日中に誰かと一緒にいられる安心感がありますよ。」
オガワ「だってあそこは障害者が行くところでしょ?私は向いてないよぉ。」
精神障害者保健福祉手帳2級で障害年金も取得しているオガワさんだが、他の障害を持った方を下に見ている印象がある。以前、病院のデイケアを試しに行ったこともあるが、「彼女たちは可哀想なコ達だから」と言って、見学だけで行くことはなかった。
新井「オガワさん、あなたも手帳も年金ももらってますけどね。」
「そうだった。私も障害者だったわ。」 オガワさんは笑いながら答えた。少し会話が盛り上がってきたようだ。オガワさんの表情も良くなっている。
新井はオガワさんと初めて会った時、どういった人か分からず、手探りで会話していたが、何度も会ううちに(正確には本人や警察から呼ばれるたび)、オガワさんの人となりがわかってきた。オガワさんは単なる寂しがり屋ではなく、人との会話が本当に好きなのだ。また、オガワさんにはハッキリと伝えないと話が進まないことがわかった。そのため、今はハッキリ伝える新井と、それをフォローする松山という連携が自然と生まれていった。
新井「さて、私たちも何度も呼ばれて、結局、何も進まずでは意味ないので、これから年金までの間の食糧事情をどうするか考えますけど、オガワさん、何かいいアイデアあります?」
オガワ「新井さんや松山さんが考えてくれるんじゃないの?」
松山「私たちが考えるだけじゃなくて、オガワさんと一緒に考えたいってことですよ。」
オガワ「じゃあ、毎日、誰か料理届けてくれる?」
新井「オガワさんのために毎日足を運べるほどみんな暇じゃないですよ。」
オガワ「呼んだら来てくれるじゃん。」
新井「『死ぬ』って電話で叫んでいる人を警察も私たちも無視できないだけです。」
オガワ「けど、電話するときは本当に『死にたい』ってなっている時だよ。」
新井「知ってますよ、だからこうやって来るんです。」
松山が会話をあえて遮るような感じで、 「オガワさん、台所見てもいいですか?」 と立ち上がった。
オガワ「いいけど、何もないわよ。」
松山が台所を物色していると、米や缶詰、そして大量のパスタがあった。
松山「オガワさん、これ食べないんですか?結構な量ありますよ。賞味期限も大丈夫ですし。」
オガワ「え~、料理する気になれなくって。」
新井「何でこんな大量のパスタが?」
オガワ「日持ちするからって知り合いが持ってきてくれたんだけど、いつも一緒にすぐに食べられる弁当とかも持ってきてくれるから、溜まってきたんだよね。」
松山「オガワさん、せっかくなので、この食材生かしましょう。そういえば前に居宅介護利用のために障害支援区分の申請しましたよね?」
障害支援区分は障害福祉サービスを利用する際に必要となる判定だ。
オガワ「そうだっけ?」
新井「覚えてないとは言わせませんよ。風呂に入っても風呂を洗う気力がないって言うから、居宅介護を利用して風呂掃除をしますかって提案したら『お願いします』って言って、障害支援区分を取ったのに、ヘルパーさんに来てもらったら『あの人いやだ』ってわがまま言って1日で終わらせたのは、誰ですか?」
「そうだっけ?覚えてないなぁ。」 と軽く笑いながら、オガワさんも部屋の隅から立ち上がり、台所方面に行って、自分でも食料を探し始めた。
松山「居宅介護で簡単な料理を作ってもらうことができますよ。あれ食べたい、これ食べたいってわがまま言わなければ、ヘルパーさんに今ある食材で簡単な料理を作ってもらえば、次の年金まで何とか持つと思いますよ。」
オガワ「そうなの?それじゃお願いしようかな。」
新井「それじゃ、ヘルパーさんを調整しますね。」
オガワ「あっ、私より年下の女性はダメね。あと、あまり年取りすぎている人もNGで。」
新井「ヘルパーさんに関するわがままも受け付けません。」
オガワ「え~、じゃあ、ヘルパー嫌だ。」
新井「それじゃ自分でパスタを茹でて塩でもかけて食べててください。」
オガワ「それ、おいしいかな?」
新井「ただの塩味だと思いますよ」
オガワ「それじゃ味気ないよねぇ…ちゃんと作って食べないととは思うんだけど」
オガワさんは会話のやり取りこそ、しっかりできているようにも感じるが、おそらく一人だと気力がないことの方が多いのだろう。しかし、人前ではいい顔をしたいため、頑張って人が入ってきても恥ずかしくない程度に片付けているように感じる。実際、新井が以前、訪問した際、別の部屋を見たとき、足の踏み場もないくらいの状態であったため、荷物はそこに押し込んでいるだけだろう。調理も躁状態のときは外で済ませ、うつ状態のときは知り合いという人が助けてくれているのだろうと思われる。
後日、オガワさんと歳が近い女性のヘルパーさんがいる事業所と顔合わせしてもらったところ、オガワさんはそのヘルパーさんを気に入り、人が入ることに慣れた頃に、他のヘルパーにも支援してもらうようになった。年下の女性だったにもかかわらず、問題なく支援に入ることができた。
相変わらず、たまに警察や役所に連絡が来るものの、以前のように取り乱した感じではなく、「近況報告したいから、たまには遊びに来て」との内容だった。
新井は「私たちはオガワさんに呼び出されて遊びに行っていたのか」と松山にいうと、松山は「そういう人多いじゃないですか」と笑いながら言った。
新井は「まぁ、そうやって気軽に思ってもらえるのも悪くないのかもしれない」と思いながら、日中の訪問で溜まってしまっている仕事に目をやった。
文責 新井まこと