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病気休暇中の自己探索の日々の中で気づいたこと③(覚え書き)


病気休暇明けに一番不安に思っていること

病気休暇中の自己探索の日々の中で気づいたこと②(覚え書き)で…

わたしの働きづらさ、生きづらさの正体は、わたし自身の中に中にある、わたし自身の心の捉え方にある

…ということに気づくことができました。そして…

感情につながる、心の捉え方や信念には気づけてきましたが、今後は、この捉え方を、うまくとらえ直しするためのトレーニング(認知行動療法)が必要になってくるかなと思います。

「イラショナルビリーフにより、白か黒かの様な、考えを二分させる、他を切り捨てるようなことになっていないか
「本当に意味がないのか?そうなのか?」
「~という見方もできるのではないか」
「時間をかけていけば◯◯も意味があるのでは?」など
まずは、こんなことを自分に問いかけていくことを大切にしていこうと思います。

…というように、改善に向けた思いも書いてみました。

わたしが、病気休暇明けに一番不安に思っていることは、「単調で、生産性・創造性がないと感じる業務を、(自分の人生の目的においても)意味があることと思えるかどうか」という点です。

これに対して、心の捉え方を変えていくとすれば…
①「すべての業務がそうであるわけではないし、むしろ、業務の中に、(自分の人生の目的においても)意味があることを求めていくこと自体が難しい」
「意味がないと思っていることは、実は意味があることなのかもしれない」

という2通りの捉え直し方が思い浮かびました。

ここでは、②の「意味がないと思っていることは、実は意味があることなのかもしれない」ということについて考えてみようと思います。


単調で、生産性・創造性のない業務とは

その前に、わたしが、「単調で、生産性・創造性のない」と思い込んでいる業務を大きく二つに絞り以下にまとめてみました。
・調査回答、提出物等の書類処理や管理
・別室での生徒対応

このうち、別室での生徒対応は、教室に入ることができない生徒の居場所となるようにと、わたしが提案したものでした。

別室で、学習したり、話をしたりしながら、気持ちを落ち着かせ、少しずつでも教室に入ることをめざしていけたらいい。
そこを職員全員で応援することで、大人不信になっている生徒が、職員との関係を構築していくことにもつながるのではないか。

そんな期待をしていましたが、大人不信になってしまっている生徒は、自分の鬱積した気持ちを、いわゆる問題行動という形で表現してしまうことが多くなってきました。

次第に、教室にいる同級生との関係もとぎれてきてしまい、一日の大半を、別室ですごすようになってきました。

さらに、別室でも注意しないといけないような行動がみられるようになり、別室ですごすことも難しくなってきてしまいました。

そして、気づけば、わたしたち職員とその子達は、見張る・見張られるという関係性になっていってしまいました。

毎日登校はするものの、別室やその他の場所で、自分達の意思で行動していき、それを職員が追いかけるという日々が続いていました。

これでいいのか、勉強させなくていいのかという思いは誰もが感じていたので、何も変わらないように思う日々に対して、徒労感を感じるようになってきました。

成長という達成感を感じられない中で、体力的にも精神的にも疲労がたまってきたからだと思いますが、職員から、課題のある生徒に対しての心ない発言も聞こえてくるようになりました。

わたしは、職員の心ない発言と、そういわざるをえない状況を改善できずにいることに対して責任を感じるようになり、しんどくなってしまいました。

こうして…
「日々の業務は、単調で、生産性・創造性がない」
「このような状況は、どこの学校でも生じることだから、いつでもどこでも同じ気持ちになる」
「だから、展望がない」
「だから、(自分の人生の目的において)意味がない。早く脱出したい。」
という思いが膨らむようになりました。


気付きを与えてくれた『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』

東畑さんは、セラピー(心の深層に取り組む心理的援助)よりもケア(日常とか生活に密着した援助の在り方)を軽んじていたけれども、いかにケアが大切であるかということに気づいていかれます。そのことが、ご自身の実体験に基づいて書かれています。

わたしは「単調で、生産性・創造性のない業務は、わたしの人生の目的にとっては、意味がない」と感じていました。
東畑さんは、セラピーがほとんどできない、ただ「居る」だけの日々に対して、それでいいのかと思い悶々とする日々をすごしていました。
やりたいことができず、変化のない業務に意味を見いだせないでいるという点で、とても共感できました。

だからこそ、東畑さんがデイケア施設ですごす中で気づいたことは、わたしに大切な気付きを与えてくれたのだと思います。


いわゆる問題行動が生じるサイクル

①心が不安定になる。(表に出る感情としては、イライラや怒りがほとんど)
↓ ※対処(ここで二次災害を防ぐ)
②物や人に当たるなどの行動にでる。(感情を心の中にとどめておくことができなくて)
↓ ※対処
③心が一時的な安定を取り戻す。
↓ ※出来事や現象(家庭の事、友達関係、SNS、学習や進路、教員からの注意など指導)
↓ ※対処(原因となる要素を取り除くか、減らして未然に防ぐ)
④心が不安定になる。
↓ ※対処(ここで二次災害を防ぐ)
⑤物や人に当たるなどの行動にでる。(感情を心の中にとどめておくことができなくて)
↓ ※対処

いわゆる問題行動を起こす生徒のほとんどが、ネガティブな認知(考え方)の癖があり、そのことに気づいていないために、生きづらさ(例えば、些細なことでイライラしたり、被害妄想を起こしてしまう等)を抱えているのではないかと思っています。

だから、③~④の中で出会う出来事や現象においても、認知の癖で物事をとらえてしまい、些細なことでもイライラしてしまい、感情をおさえられなくなってしまうのではないかと思います。

これらは何の科学的な証明もなされていませんが、もしそうだとしたら、本人の自覚がない限り根本的な解決は難しいので、その時々の対処を継続していくしかないということになります。

①~②、④~⑤の対処の場面では以下のことにとりくんでいます。
・他の生徒に危害や不安を及ぼすような危険な行為に発展するような二次的な災害を防ぐことを最重要課題とする。
・落ち着かせるような声掛けや、落ち着けるような場所を準備する。
・落ち着いたら話を肯定的に聞く。

③~④の対処の場面では以下のことにとりくんでいます。
・原因となる要素を取り除くか、極力減らすように努める。
・普段と違う様子をいち早くキャッチできるように何気ない変化を見落とさない。
・感情の高ぶりを別のところで昇華できるようにする。
・自制できる要素(信頼できる人との約束等)
・関係構築を続け、信頼感をもってもらうようにする。
・落ち着けなくなったときの自己対処法を共有しておく。

日常はこのくりかえしです。
この対処に多くの職員がかかわり、何の成長も感じられない時、達成感を感じられず、展望が見えず、徒労感を感じてしまいます。
だから、あの子達の成長が感じられない今の状況においては、誰もが、意味があるのかと、問いたくなるのだと思います。


居場所型デイケアの日常とは?

東畑さんが勤務していたのは、居場所型デイケアと呼ばれている施設で、そこには、統合失調症の人、長く引きこもっていた人、高齢者、社会復帰が必ずしも容易ではない人たちが利用しています。

彼らは社会に「いる」のが難しい人たちなのだ。だから、僕の仕事は「いる」のが難しい人と、一緒に「いる」ことだった。

「いる」ことを目的として「いる」

『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』 東畑開人

「それでいいのか? それなんか意味があるのか」
という声が何度も聞こえてきては、何かをしていないと「ただ、いる、だけ」に耐えられなくなってきたということでした。

わたしが、別室であの子達と一緒にすごしているときも、同じような気持ちになったなあと思い出しました。

東畑さんは、そのような日々を、メンバーさん(利用者の方のこと)とすごしながら、「ただ、いる、だけ」の意味をつかんでいきます。

デイケアでは、「変わらない」ことにも高い価値が置かれる。デイケアでは、「一日」を過ごせるようになるために、「一日」を過ごすのだ。そこでは、手段そのものが目的化する。

ほとんどのメンバーさんは、デイケアに「いられる」ようになるためにデイケアに「いる」

それでいいのか?僕らは成長をめざすべきではないのか、治療に向かうべきではないか?そういう声が聞こえてくる。

だけど、それでも、デイケアにいると、成長しないこと、治らないこと、変わらないことの価値を感じてしまう。

『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』 東畑開人


パックス・デイケアーナ

東畑さんは、「動かざることデイケアの如し」と揶揄するくらい、動きのない平和な日常のことを「パックス・デイケアーナ(デイケアの平和)」と言いました。

しかし、デイケアで起こった様々な事件のあと…

「これは、かりそめの平和だ」
パックス・デイケアーナの裏側には、いつでも火種がくすぶっていた
パックス・デイケアーナとは、もろくも崩れ去ってしまうかりそめのものなのだ。

と表現し、さらに、それは、デイケアだけのことではなく、どこにでも起こりうることであり、平和を維持することは当たり前ではないことを伝えてくれています。

当たり前だったはずの「いる」ことが不可能になる。僕らの日常だって、薄皮一枚で維持されている。

そんな平和を維持するために、看護師が奮闘していたことも記しています。

だから看護師たちは日々、消防をして回っていた。出火していないかをチェックして、ボヤが見つかったら大火になる前に鎮火するのだ。

これは、問題行動が生じるサイクルの中で、わたしたちが、問題行動が起こらないようにしている対処、起こったときにしている対処と同じではないかということに気づきました。

デイケアの看護師は、パックス・デイケアーナ(デイケアの平和)を維持していくために、火種を消していく作業だけではなく、火種そのものをつくらないようなとりくみ(カラオケ大会、ソフトボール、クリスマス会等)をしていました。

メンバーさんは、脆さや弱さ、そして激しさを抱えていて、それは薬物療法やケアによって抑え込んでいる。

だから、デイケアには裏でうごめくものを処理するための装置も存在している。たまったガスを抜き、淀んだ時間をかき混ぜる。そのために、さまざまなイベントが開催される。

民俗学でいう「ハレとケ」というやつだ。終わることなく繰り返される「日常=ケ」は徐々に枯れていって、「ケガレ」になってしまう。するとケガレは暴走し、デイケアの平和を脅かす。だから、ときどき、ハレの時間を挿入することで枯れたものを生き返らせる。

学校における、「ケ=日常が、授業や学級活動」だとすれば、「ハレ=祝祭の時間が、体育大会、合唱コンクール、修学旅行、遠足、球技大会等の学校行事」のことではないだろうか。

授業や学校行事に、なかなか参加できずに別室ですごすあの子達の日常が「ケガレ」にならないように、畑作業を一緒にしたり、近隣の保育園で一緒に遊んだりすることは、「ハレ」になるのではないか。

そんなことに気づかされました。


ケアとセラピーについて

東畑さんが、この本の中で、ケアとセラピーについて次のように定義しています。

セラピーは新しい生き方に開かれ、人生を再構築することをめざす。それを、人は成長と言ったりする。

セラピーは自立を原理としています。自分の問題を自分で引き受ける。痛みや傷つきを受けとめる。そうすることでより自由になる。人として成熟する。だから、ケアでは変化するのは環境でしたが、セラピーでは個人が変化していくことが目指されます。

このように書かれると、やはり、このような人の成長に携わっていきたいなと改めて強く思います。一方、ケアとは…

デイケアで生じていたのはそういうことです。そこには傷つきやすい人たちがたくさんいて、彼らは多くのニーズを抱えていました。だから、それらを一つずつ満たす必要がありました。そうじゃないとメンバーさんは傷ついてしまって、そしてデイケアにいられなくなってしまうからです。そう、「いる」とは、十分にケアされることによって初めて成立するものなのです。ケアは安全とか、生存とか、生活を根底で支えるものなのです。ケアは傷つけないことである。

東畑さんは、どちらが大事というわけではなく、「人が人に関わるとき、誰かを援助しようとするとき、それは常に両方あります」と、両方の必要性を伝えてくれています。

それでも、学校というフィールドを考えたとき、ケアが成り立たなければ、セラピーは存在しないのではないかと思ってしまいます。


気づかされたこと

わたしの置かれている状況と東畑さんが置かれていた状況
パックス・デイケアーナ(デイケアの平和)を維持していくことのとりくみと、問題行動が生じるサイクルへの対処
ケガレに対するとりくみ
そして、ケアが意味すること

これらすべてのことが、学校というフィールドと、そこで働くわたし自身に、そのまま重なりました。

学校は、子どもの人格を形成する場所であり、そのために、教員が、様々な形で関わり、学力保障や進路保障をしていくところなのかなと思っていました。

しかし、デイケアを利用しているメンバーさんと同様に、生徒一人一人もまた、脆さや弱さ、そして激しさを抱えて、登校したり登校できずにベッドにうずくまっていることを想像したときに、もっと大切なことがあるのではないかと思えてきました。

人格の形成、学力保障、進路保障の大前提として、「学校は、どの子にとっても安心してすごせる場所であること」が置かれるべきではないのか
だから、ティーチング、カウンセリングよりも圧倒的にケアの時間が必要なのではいか

そうであるならば、学校版パックス・デイケアーナを保つことが一番必要なことではないのか
というふうに思えてきました。

そして、「いる」とは、「十分にケアされることによって初めて成立するものだ」ということをもう一度考えてみると…
教室に入れていない子もいるけれど、こうやって、学校に子どもたちが「いる」ということは、奇跡的なことではないのだろうか
この「いる」を支えるスタッフが、「いる」を支えるための大なり小なりの関わりがあってはじめて、「いる」は成立しているのではないだろうか
この大なり小なりの関わりこそが、ケアというのではないだろうか

東畑さんは、このケアに関わる人のこと(デイケアではスタッフ)についても次のように言及しています。

心のケアとは脆弱な人と一緒にいて、相手を傷つけないことだ、と僕は思う。

だけど、それはたやすいことではない。そのとき、ケアする人自身が傷つきやすく、脆弱な状態に置かれるからだ。依存労働者は、依存されることに伴うさまざまな難しさを飲み込まないといけない。

ケアしつづけるために、ケアする人は多くのものに支えられることを必要とする。

わたしの学校でも、わたしが、こうしている間にも、ケアをしつづけるために奮闘してくれていることが想像できます。

ケアすることはとても貴重なことですが、そのケアを担う人をケアしていくこともセットでなければならないなと思いました。

ここで、わたしが、冒頭で、「単調で、生産性・創造性のない業務」だと思い込んでいた二つのことについて再考してみたいと思います。
①調査回答、提出物等の書類処理や管理
②別室での生徒対応

まず②についてですが、そこにはケアの要素が多く盛り込まれていたのだなということに気づかされました。

生きづらさを感じながらも、それをうまく表現できないでいるあの子達が、いつか、誰かの導きや自らの気づきによって、自分らしく生きていってほしい。
何も変わらないように思うけれども、今は、しっかり気持ちを受けとめてつながっていき、あの子達の「いる」を支えるだけでも意味があるのではないか。

そんなふうにとらえ直すことができました。

次に①ですが、業務内容を嘆いても仕方のないことなので、職員室で仕事をしている立場を利用して、ケアに奮闘してくれているスタッフのケアをしていくことならできるのではないか、メンタルヘルスに気遣い、話を聞くことをできるのは、管理職の特権であり、任務でもあるのではないか。
そんなふうにとらえ直すことができました。

最後に…
「意味がないと思っていることは、実は意味があることなのかもしれない」ということを検討するために、ここまで、言わばとらえ直しの旅に出掛けてきました。
そして、「わたしの役職や任務は、学校の目的としても、わたしが働く目的としても意味があることであり、自分の人生の目的にとっても意味のあることだ」ということにも気づきました。











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