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家族のはなし
日記や手帳の内容はもとより、書いている姿をわたしは絶対に人に見られたくない
見られたら最期、どうやってお別れを告げようか本気で悩み始める
なんでそんなことを考えるのかと紐解いていくと、親との関係があるようにおもわれた
茶化されたり否定されたりすることが多かった
わたしは真剣だったのに、まず茶化す。そして本気を伝えると真面目に否定してくる
だからどんな創作物も恥ずべきもので、次第にわたし自身が恥ずべき存在であるという価値観が形成された
同じように育った妹は、大人になった今「エビフライが好き」という
それ自体は何でもないことなのだが、「そんなの知らなかった」と母が言うと「子どものころ『そんなもの好きなんてお子さま』って言われたから、それ以来言わなかった」と答えた
父は知らないが、母は明らかに傷ついていたと思う
エビフライの一件以降、妹は母に子どもの頃の傷つき体験を頻繁に話すようになり、母はその度傷ついている
わたしからすると、妹の言動は言えば理解してもらえるという母への甘えだと思う
たしかに傷ついた事実はある
でも今となってはもうどうしようもないことを当事者に訴えたところで新たな傷つき体験を増やしているだけのように思うのだ(賛否はあると思います。二人はわたしの家族なので、あくまで家族間の話を受けて考える事です)
ただし。わたしが親に言わない理由は、別に親を傷つけたくないからという崇高な理由からではなく、話したところで理解してもらえないからというあきらめの気持ちからくるものが大きい
わたしはイスカンダルの生まれで、人から理解してもらえなくて、恥ずべき存在なのだ
全く持って嘘のプロフィールだし、今となっては多少なりとも理解者は存在する
それでも心に刷り込まれたものはなかなか変えることができない
そして、そのプロフィールはふとした時に夫との関係にも影響を及ぼす
夫にも自分の本当のところでの本心を話すことは難しいと感じる
彼は茶化しはしないが、否定が多い
心のカサブタは敏感に反応し、沈黙という防御をとる
そんな自分を変えたいとも思う
若草物語という小説で、姉妹のお母さんは「人は変わりたいと思った年齢の倍の時間をかけて変わっていくものよ」と言っていた
つまり気づきや決意は若いうちにできた方がいいのよ、エミリー
みたいな内容だったと思うが、わたしは死ぬまでに身近な人へ自己開示できるのか
お母さん、教えて
そうやって甘えられる日は来るのだろうか