正解主義をはがす
間違いとか失敗を怖がって行動力にストッパーがかかっていることがよくある。
頭ではわかっているんだけれど、失敗って糧になるし良いものなんだよね。そもそも失敗っていう考え方自体が存在しないっていう考え方もある。自分の頭で考えていることと、結果のエラーでしかないから、それを修正すれば成功するように世の中はつくられている。
でも、問題なのはなぜそれを自分が恐怖に思うのか。恐怖って感情からくるものだ。ということは、心が動いてるから起こる現象だと認識できる。
心が動くってことは脳がめちゃくちゃ反応してるってこと。だから、脳がしっかりとエネルギーを使うくらいの経験をしてる。その経験の中にある、何かしらの現象によって心が動いて、恐怖という感情が生まれて、行動しづらくなっていると整理したわけだ。
じゃあ、その経験ってなんなんだろうっていうことを次に考えることになる。
その結論は何か。
これは「義務教育の正解主義」だと行き着いた。
小学校まで時代をさかのぼる。ミスをするとテストの点数が引かれ、点数が低いと周囲と比較され勝手に競争のフィールドに立たされる。優劣がつくと自尊心が傷つく。点数が低いほど先生や親に怒られる。そこでも◯◯さんはどうたらこうたらと説教マシンガンがとばされる。さらに自尊心に影響が出る。
さらに厄介なのは、点数が良ければめちゃくちゃ褒められること。
褒められると嬉しいし、自尊心が満たされる。脳みそから喜んでいるのがわかる。
するとまた良い点数が取れるように頑張るようになる。
そして気づいた。当たり前だと思っていたことの中に、恐怖心が生まれるメカニズムがしっかりと隠れている。
僕はこの情景を振り返ったときに怖くなった。
だって、何年間もひたすら、自分のために頑張ってるわけじゃなかったからだ。
振り返ってみて、ポイントだと思ったのは賞罰だ。
賞罰によって自分に起こった現象は先生や親など、「周囲のためにがんばる」が行動の優先順位としてもっとも高くなっていることだ。
つまり、他者のために頑張っていることになる。
他者の反応に合わせて、自分が反応する自分になってしまっているわけだ。
でも、大人になって求められるのは「誰かさんのために」ではなく、「あなたはどうしたいの?」なのだ。
他者のために動くとどうなるか。
行くつく先は「他責思考」なのだ。
なぜそうなるのかはまた別の機会に書いてみたい。
良い方向に転べばいいかもしれないが、悪いことが起こったときに、それは自分の責任ではありませんっていう思考になりやすいのだ。
正しい感覚は「自分のために頑張る」を最優先事項に動くことだ。その頑張った結果、周囲の人にも良い影響が出るとベターなのだ。
この感覚で動くと自分との対話も生まれやすくなる。自分はどうしたいのか。何を目的に頑張るのか。そういった指標を自分で決めて人生を進めやすくなる。
上手くいっても自分の出した結果として噛み締められるし、悪いことが起こっても「自分の責任」として考えることができる。
だから、失敗や間違いに対しても、自分でけつを拭く根性を持って、間違ってもいいからそれを糧にする前提で積極的に行動した方が絶対に良いサイクルを生み出せる。
まとめると、他責思考になっているから、恐怖心につながり、動けなくなっているのだ。
そんな人生、ダサいと思えてならない。
自分の人生は自分で舵取りしなければ。
今日も良い一日にします。
2024/03/22