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稲作一区切り〜ヨシユキさんの田んぼ

 旅するスーパースター、蕎麦宗です。

2022年・2023年の2年間、自宅前の休耕田をお借りして稲作に取り組んだ。そちらの記事は↓

 その場所はご近所の東(屋号)のヨシユキさんの田んぼで、厚意で無償にてお貸し下さった。

 ヨシユキさんには想い出がある。小学生低学年の頃、スグル(弟・次男)と共に田んぼで遊んでいたときのことだ。
 当時(1970年代)の田んぼには《*稲ぶら》といって、ハザ掛けの後脱穀を終えた稲藁いなわらが、三匹の子豚に出てくる藁の家のように積み重ねられていた。中にこそ入れないけれど、登るとふかふかで気持ちよく、トランポリンのように飛び跳ねては隣の稲ぶらにとび移って遊んでいた。 
 そんな様子が見つかると、

『こら〜、この小僧ら!』

と、農家の大人達に叱られたものだ。
 ある日、いくら怒鳴られたところでめないので、見兼ねたヨシユキさんが追いかけてきた。ところが僕ら山川兄弟はいつもリレーのアンカーに選ばれる*駆けっこが速い二人だった。当然その逃げ足には、若かりし頃のヨシユキさんでも追いつかない。挙げ句の果てに

『お前達は本当に足がはやぁなぁ』

と褒められたのだった。後日親にまで『あんたん*の子供らは脚が速ぁねぇ』と言っていたくらいだからよほど感心したのだろう。

 あれから40年以上の歳月が流れて、そのヨシユキさんに田んぼを借り、昭和の稲作を手取り足取り教えて頂くことになるだなんて、夢にも思わなかった。思春期を過ぎた頃の僕は田舎の窮屈さに辟易として早く出て行きたかったし、戻ってきて変えてやる、なんて息巻いていた。今になってみれば、【韮山はすごい!〜…】に書いたように、郷里に愛着を感じているけれど。

 しかしながらその田んぼ、2024年は借りることができなくなってしまった。僕らの収穫が終わったその翌週、まるで見守り終えたかのようにヨシユキさんはあちらへと旅だった。享年87歳。脱穀機のお礼を言いに行ったとき、確かに

『肺がね、具合がよくにゃぁだよ』

と苦しそうにしていた。それでも亡くなる前の日に、軽トラで畑へと出掛けて行くところを見かけて挨拶をした。歳とは言えど、人の命ははかない。

 さて、稲作はどうなるのか。田んぼの使用は職業農家でない限り、本来は法的には認められていないことで、極めて黒に近いグレーなことだ。ましてや、無償となるとヨシユキさんのようなご厚意がない限りそうあることではない。相続の関係もあって、息子さんは貸すことには難色を示している。となると近隣の農家もそれに準ずるだろう。と思っていたら、他の田んぼも来年は借りることは出来なくなった。僕らの《米ラボ》は場所を失い、取り上げられてしまった格好になった。

 でも、これもそうなる運命さだめだったんだろう。2年間いい経験が出来たし、稲作や農業に関する社会的な問題も沢山垣間見た。いずれどこかで、きっと役に立つ日が来ると思う。
 今はただ、改めてヨシユキさんに感謝したい。ご冥福をお祈り致します。

よし、ガンバラナシませう。

*稲ぶら…これは伊豆の方言で一般的には稲塚。
*駆けっこ…徒競走のこと。伊豆弁で走ることを駆けるという。
*…伊豆弁で家のことを『ち』という。○○ちゃん家(ち)へ遊びに行こう、ウチっ家(ち)来る?などと使う。

#稲作 #手放し #逃げ足 #昭和の暮らし #故郷

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山川宗一郎
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