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【人生の衣替え】

本日消防士の制服を脱いだ

僕の命を守ってくれた防火衣をそっとたたみながら16年間を振り返った。我慢と努力と挑戦と感謝の消防人生だった。

2003年に採用され、はじめに通う消防学校では教官方にたくさん迷惑をかける消防士だった。集団生活が苦手な僕はストレス発散をしたくて校則違反の飲酒し、何度も怒られた。本当に未熟だった。しかし人の命を守るという職業に大きな責任と覚悟を持っていた僕は一方で学校で行われる試験13科目中9科目で100点を取り度肝を抜いた。僕はその1点で人命を救えないかもしれないと思って思いっきり勉強しただけだった。

学校を卒業し救助隊になった僕は使えないレスキュー隊員だった。救助訓練では毎回のように嘔吐し、膝を怪我し、手は腱鞘炎になり仲間に迷惑をかけてばかり。なぜこんなにも辛い思いをしなければならないのかと自分を失う時期もあった。でも負けず嫌いの僕は家に帰りこっそり自主トレを続けた。結果、初の救助大会で県大会を突破し東北大会出場を経験することができた。チームワークと支え合いを学んだ。

救助服を脱ぐと、岩手・宮城内陸地震が栗原市を襲った。地震の翌日から僕は土石流現場に行くよう命令された。そこにはNHKのプロフェッショナルにも出た東京消防庁ハイパーレスキュー隊の宮本隊長、自衛隊の幕僚長、警察機動隊の隊長、緊急消防援助隊の隊長方が集まった。行方不明者5人を救助するため、スペシャルが一つになった。

しかし繰り返し行われる現場調整会議に耳を傾けると、僕が想定した土石流状況と飲み込まれた建物の破壊状況の認識が違った。これではダメだと思った僕はスペシャルの面々が行う会議の中に手を挙げて飛び込んだ。勇気を振り絞って。「すみません、意見があります!」現場経験たった4年の僕はただただ必死だった、人命を助けたかった。現場の停滞を打開したかった。

現場は動いた。その後僕は現場の鑑定役を任され、約1年の捜索活動を経て5人全員を家族の元に返すことができた。あの時の勇気を褒めてくれたのは東京消防庁の宮本隊長の上司だった。捜索活動中の夕暮れ、オレンジに輝く泥の現場を二人で眺めながら「君は素晴らしい。その勇気を忘れるな。頑張れ。」と。僕は涙した。消防は厳しい世界だ、なかなか褒められない。でも褒められた。嬉しかった。

翌年、僕は総務課に異動し消防団の係になった。もともと行政が管理していた部署が消防に移管された初年度だった。すべてが初めて。大変だった。毎日朝からフルスロットルで夜遅くまでかかった。貯めた筋肉がすべて削ぎ落とされ体重が58kgになっていた。36回できた懸垂も一回もできなくなっていた。人の身体のマイナス変化を身をもって経験した。

4年間勤める中で2つ大きなことがあった。一つは東日本大震災だ。このストーリーは若柳の坂本団長を抜きに語れない。団長は宮城県消防協会の会長でかつ日本消防協会の副会長だった。僕はその秘書だった。団長と僕は震災直後から宮城県内の災害対策本部をすべて訪れた。消防団の支援をするためだ。現場は想像を超えていた。壊れた街並み。消えた人々。平和を欲した。いっぱい泣いた。団長と一緒に忍んだ。

団長はいつも僕を励ましてくれた。まるで僕のもう一人の父のように。いっぱい時間を共にした。そのすべてが宝だ。そんな団長のお陰で僕は消防団が大好きだ。だから消防団の応援歌を作るコンテストに応募した。全国から多数あった応募の中から最優秀賞をいただき水前寺清子さんが歌いCDになった。素晴らしい出会いが素晴らしい歌詞を生んだ。すべて団長のお陰だった。

4年間の総務課から現場に戻った。燃え尽き症候群になった。現場も大変だが、総務課のときの刺激を超えることはなかった。僕はあき時間を見つけて大震災を振り返り大停電を研究した。電気がないとみんな困る。発電所を自分で作れないかと考えた。そもそも公務員がやれるのか人事院に問い合わせた。宮城県にも問い合わせた。問題がなかった。国が推進する事業なので何人たりとも制限がなくむしろ遊休地の有効活用にもなるとわかった。僕は作った。平時は売電、有事は近所に無償で電気を配れる防災施設を作った。

僕はこの時34歳だった。やはり物足りなかった。自分のスキルを確かめたくて消防士だが経営の大学院に通った。そこには大企業や名門大学出身の猛者がたくさんいた。クリティカルシンキングという授業を選択し脳みそが汗をかく感覚を味わった。楽しかった。成績はトップだった。しかし給料はなんと一番低かった。社会はどうなっているんだ。社会をもっともっと知りたいと思った。

この年、二度命を失うギリギリの体験をした。一度目は火災現場。真夜中の建物火災だった。当時出張所の統括で勤務していた日出動がかかった。無線からは「逃げ遅れがいる!」僕は急いだ。現場に着くと建物は大きな炎に包まれた最盛期だった。上空が真っ赤に焼け、倒壊寸前。セオリー通り現場を一周した。当然建物の中も炎の海だ。無線で応援を頼んだ。その時、炎の中に人の足が見えた。

「ぜったいに死んでいる。無理だ。」と一瞬心の中で思ったが、次の瞬間僕は建物の中に飛び込み人の足を掴み引きずり出した。一人の判断で。とても軽い。上半身は燃えてないのか、そんな軽さだった。熱さも怖さも不思議となかった。屋外に引き摺り出すと、その方は生きていた。上半身もある、おばあちゃんだった。「そうさん!大丈夫ですか!」後輩が駆け寄ってくれた。一緒に安全な場所に運んだ。次の瞬間「ドン!!」建物の二階が崩れた。僕は生かされた。

二度目は9.11の関東・東北豪雨。異常気象だ。非番だった僕は午前3時に非常招集された。消防士のスイッチが入る。迅速かつ的確に向かった。しかし街灯の少ない田舎、しかも豪雨の被害が最も深刻だったのは僕の家の周辺だった。招集先は車で40分はかかる出張所。慎重に移動した。ところが雨は川の堤防を破壊し、冠水を至る所に発生させていた。まさかの事態が僕を襲った。あんな経験は二度としたくない。

向かう途中、道路の水嵩が増してくるのを運転しながらわかった。徐々に道路の白線が見えなくなる。ヘッドライトが水に反射して眩しい。右側から川のように水が押し寄せてくる。すでにUターンなどできる状況じゃない。街灯はない。ヘッドライトが点滅し始める。エンジンはウーウーと異音を鳴らす。僕は「頼む、頼む!」と声を出していた。水はフロントガラスまで達した。外は田んぼだったエリアが海のようになっていた。泳ぐか、運を信じ道路を推定し進むか、試された。僕は運を選んだ。

奇跡的にまるで海のエリアを僕の車は舟のように道無き道を進んだ。助かった。一切を署に報告した。出張所には行けなかった。違う車で翌日向かった。早速捜索現場に出動することになった。そこは昨日僕が命拾いした道路。実は僕は一ヶ所、石の橋を渡っていた。その橋が水の力で壊れそこに車のまま落下した方が亡くなっていた。そして橋の壊れた時間を調べると、僕が通過した約5分後だった。また生かされたのだった。その半月後、大好きなずっと一緒だった僕のおばあさんが他界した。おばあさんが助けてくれた。だから僕の車のナンバーはそれからずっとおばあさんの誕生日だ。

現場を2年経て119番の受付に異動した。指令センターだ。そこでは話すこと聞くことのスキルを磨くことができた。また119番の多さ、単なる問い合わせの多さも知った。心が病んでいる人がたくさんいることも知った。消防への期待や不満も知った。健康への情報が足りない、根本を変えないといけないと思いはじめた。この頃僕は気象予報士の資格合格を目指して毎日5時間以上試験勉強をしていた。異常気象への消防対応と太陽光事業の両方に役立つと考えたからだ。

一発で取るつもりだった。合格率約5%、結構勉強した。参考書や過去問で机がいっぱいだった。マジだった。一般知識、専門知識、実技1、実技2、試験はここ10年で非常に難しくなっている。一般と専門は一発でクリアし免除、しかし上空5000mなどの気象図など図13種類くらいをみてすべて筆記で回答する実技で毎回転んだ。丸2年受験生をし、4回落ちた。さすがに疲れた。この時同時に僕は気分転換でジムに通うようになっていた。

過去問を解きその答え合わせをジムのバイクを漕ぎながらあのモニターの上でやるという休みの過ごし方。2年の勉強を一旦休憩したがジムには通い続けた。いつしか運動が習慣になっていた。はじめは筋トレなど一切していなかった。筋トレの効果も知らなかった。ある時ふとダンベルを持った。あの重りを持ち上げるという単純な動作が面白かった。ハマった。身体が変わっていく。なぜ変わるのかその原理原則を知りたくなった。

僕は筋トレにまつわる本を買いあさり読んだ。最新の研究結果が書いていた。共通したことが書いてあった。エビデンスはわかった。自分の身体で実験した。合わせて目標を決めた、ベストボディジャパン仙台大会40代に出場してみようと。1年間週に4回以上一回200円の例のジムに通い続けた。大手フィットネスジムのような立派な機材はない。工夫した。大会に向けて減量をした。結果、幸運にも優勝した。

僕はその勝利よりも応援してくれた仲間たちや、勝利を僕よりも心から喜んでくれる仲間たちがたくさんいたことが嬉しかった。そして教えてほしいとたくさんの人から声をかけられた。僕は夢中にやっている中で健康を教えられる知識が蓄えられていた。いまなら根本を変える役目を果たせるかもしれないと思った。からだづくり=まちづくり、それは消防の手前の人助け。消防の経験とからだづくりの経験が僕を変えた。

いま新しい明日を迎えようとしている。新型肺炎、景気後退、世界は大きく変化する。今こそ共存共栄、自助共助、家族団欒。

いざ、これまで培った僕のすべてのスキルを最大限生かし、一人でも多くの、逆にマイノリティでも、微力でも役に立つのならば、そこに向かって、動く!

共に釜の飯を食べた仲間
共に過酷な災害に立ち向かった仲間
酒を飲みふざけあった仲間に、感謝

自由に挑戦しその未来を信じてくれた家族に、感謝

たまたま生きているこの命
もしくは生かされているこの命
消防でみた命の儚さ、ゆえに尊い命に、感謝

納得いくまで燃やそう、人生一度きり

ありがとう感謝*

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