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護られなかった者たちへ(レビュー/読書感想文)
護られなかった者たちへ(中山七里)
を読みました。2018年の作。
社会派ミステリーの名作として名高い本作。映画化もされています。
仙台市の保健福祉事務所課長・三雲忠勝が、手足や口の自由を奪われた状態の餓死死体で発見された。
三雲は公私ともに人格者として知られ、怨恨が理由とは考えにくい。
一方、物盗りによる犯行の可能性も低く、捜査は暗礁に乗り上げる。
三雲の死体発見からさかのぼること数日、一人の模範囚が出所していた。
男は過去に起きたある出来事の関係者を追っている。男の目的は何か。
なぜ、三雲はこんな無残な殺され方をしたのか? 誰が被害者で、誰が加害者なのか。
本当に“護られるべき者"とは誰なのか
怒り、哀しみ、憤り、葛藤、正義……
万般の思いが交錯した先に導き出される切なすぎる真実――。
いわゆる社会派ミステリーでは、概して犯罪の動機(ホワイダニット)に焦点が当てられることが多く、必然、作中において犯人側の心情が紙幅を割いて語られることが少なくありません。
ネタバラシに繋がりますので多くは語れませんが、『護られなかった者たちへ』も基本的にそうした構成になっており、本作では、社会のセーフティネットたる生活保護制度の抱える構造的課題が様々な角度から読者の前に示されます。
必ずしも他人事ではない。けれど、真正面から見据えることに躊躇してしまう問題のひとつです。
舞台が震災後の宮城県ということもあり、災害復興というもうひとつのテーマと結びつけられることにより、多層的な問題への向き合い方を読者は迫られます。
財源の壁に阻まれて、護られるべき人のすべては救えない。護られるべき人は制度の入り口で選別されるべきなのか。いかなる規則のうえで、誰の判断で選別されるのか。
では、護られなかった人の未来は――
本作の「被害者」は皆、餓死状態で発見されます。ある意味でこれ以上に犯人の思想や怨恨を醸し出す殺害方法もないのではないでしょうか。
健康で文化的な社会の裏側を想像することは大切ですが、一方で、想像を巡らせているうちはまだ幸せと言えるのでしょう。そんなふうに自省・自戒させられます。「私」が意識していないその瞬間も、陽の当たらない面は厳としてそこにあるのですから。
社会派/ミステリーということで、本作のミステリーとしての性質についても触れておきたいと思います。
作者の中山七里さんといえば「どんでん返しの帝王」と呼ばれていますが、社会派を大上段に掲げた本作においてもその二つ名は健在、面目躍如といったところでした。
てっきり本作は徹頭徹尾で社会派を貫くのかと思いながら読み進めていたところ、最後の最後に今回も見事にひっくり返されてしまいました。なるほど、中山七里作品で油断はいっときも許されないということですね。
今回、『護られなかった者たちへ』は鈴原永美さんのオススメ記事を参考に手に取りました。ありがとうございます。
(余談)
80年代、新本格派の台頭以降、国内ミステリーの世界において本格と社会派が対立項のように語られた時代も今は昔です。
本格ミステリ(を強調する作品)のなかにもテーマ性の強い作風が増え、一方で、『護られなかった者たちへ』のように本格のエッセンスを備えた社会派ミステリーも普通に見かけられるようになりました。
そもそも最近の出版シーンを見ていると、本格や社会派といったある種の商業的ラベリングが役割を終えたと見るべきなのかもしれません。
不要な垣根が時代とともに解消され、ハイブリッドな作品が増える傾向はミステリの愛読者として歓迎します。
垣根のない世界はすばらしい。
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中山七里作品の過去のレビューはこちら