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インターネットの夜明け直前、一度だけコンピュータの雑誌を作った話。

21世紀に入って、来年で早くも四半世紀。
そんなことに気づき、驚いた話は前回の投稿の通り。ところであの後、本棚の整理をしていたら、こんな雑誌が出てきました。
この雑誌を作ったのは1993年。辛うじて、まだ20世紀のことでした。

タイトルは『MacBoy』。ポパイの別冊として刊行されました。かつて、ブームを起こした頃のポパイは、テニスの特集であればテニスボーイ、スキーであればスキーボーイという特集タイトルをつけていました。その慣習に乗っかったというわけです。

記録的な冷夏と言われた1993年の夏。僕は買ったばかりで使い方もよくわからない、マッキントッシュというコンピュータの取材で、一ヶ月近くアメリカにいました。

行った先は、ボストン、サンフランシスコ、ベイエリア界隈、ロサンゼルスなどなど。そして現地で受けた数々のカルチャーショック。しかしそこから目覚める間もなく、帰国して一ヶ月でレイアウトと入稿を済ませ、無事に11月上旬の発売に漕ぎ着けました。

結果、発売して3日で売り切れるという幻の雑誌となりました。とは言え、今回はそんな自慢話をしたいのではなく、あの頃の突然世の中が変わった感じについて、こうして書きながら、いろいろ思い出してみたくなったのです。
(今回も長〜い投稿になるかもしれません。おヒマな時にご覧ください)

90年代に入った頃は、まだインターネットという言葉は広まっておらず、「情報ハイウェイ」と呼ばれていました。取材に出る少し前に『BRUTUS』がそのような特集を組んでいて、まだ遠い将来の夢物語として読んでいた記憶があります。

イントロ:80〜90年代の雑誌編集部のようすを少しだけご紹介。

僕が、某週刊誌で編集者デビューをしたのが1980年代の半ば。
その頃は、編集者もライターさんも編集部ごとに作られた原稿用紙を使っていました。鉛筆と消しゴムで何度も書き直すので、手が黒くなったりして。そして何より困ることは、消しているうちに何を書こうとしたのか忘れてしまうこと。

毎日、数百本というポジフィルムが消費され、現像会社は日に3回くらいやって来ました。さらには印刷会社やレコード会社や映画会社の人とか、さらにはモデルさんとか芸能人とかラーメンの出前とか。セキュリティなんて無いに等しかったので、夕方の編集部は街そのもの。知らない人たちでごった返していたものです。

レイアウトは手書き。すべては手作業。デザイン小道具は写植を切り貼りするペーパーセメント、ペーセメを剥がす液体を入れる、三角形の赤い缶(あれ、なんていう名前だったんだろう? 通称ペコペコ)、いろいろな形をした定規、写植見本帳、ロットリング、トレーシングペーパー、トレスコ… などなど。
「その紙焼き、トレペ貼っといて」
と言われても、今の編集者は何を言われているのかわからないかもしれない。
正解は、薄焼きせんべいにトイレットペーパーを貼るのではなく、プリントされた写真〔紙焼き)が汚れたり傷がついたりしないように、トレーシングペーパーを貼る、という作業です。

ひとつ上のフロアでは、今もカリスマアートディレクターとして知られる新谷雅弘さんが、日々全開でレイアウトをしていました。何度か見せてもらった、手書きのレイアウト用紙の美しさには、毎回驚いたのなんの。

新谷さんのレイアウトは、いつもこんな感じ。『デザインにルールなんてない』新谷雅弘・著/青幻舎・刊、より。

入稿が済めば捨てられてしまうレイアウト用紙なんて、美しくても無駄じゃないか、と思う人は多いかもしれない。しかし、あれほど美しいレイアウトに文章を入れるライターさんは、とても気合いが入ったはずです。幸せだったはずです。そしてその幸せは、雑誌の誌面にも乗り移っていたように思えます。

文房具のようなコンピュータ、現る。

時は進んでバブルは弾け、90年代に入った頃、僕は人事異動で広告を制作する部署に異動していました。
携帯電話が固定電話の子機くらいまで小さくなり、レコードがCDに代わって行ったあの頃。元号は昭和から平成に変わりましたが、出版社がアナログ天国であることは相変わらず(ほかの出版社がどうだったのかは知りませんが)でした。

ワープロ専用機を持ち込むライターさんも少しずつ現れていましたが、周りで見ているほとんどの人の反応が、「こんなものに書くより、原稿用紙に書いた方が速いんじゃないの?」「それで原稿がうまくなればいいけどさ」というような、否定的なものばかりでした。出版社には新しモノ好きな人が多いようでいて、こういうデジモノには否定的な人がとても多かったのです。そして僕も、相変わらず手書き派のひとりでした。

そんな中、あるライターさんの事務所で、四角い箱形の、小さいながらとてもカッコいいワープロを目撃します。
普通のワープロと比べて、ドットの無い、テレビのようなモニター。豊富なフォントや級数は一瞬にして変えられる、というだけでフォントフェチな僕は驚愕したけれど、「絵も描けますよ」「住所録だって作れますよ」「簡単な音楽だったら作れますよ」「ついでに言うけど、これはワープロじゃなくてコンピュータですよ」「ワープロって、コンピュータのソフトの一種に過ぎないんですよ」というライターさんのプレゼンには、意味はよくわからないけど驚きっぱなし。

それは、マッキントッシュの『クラシック2』という機種でした。
操作はマウスでプルダウンメニューから、書類はデスクトップに開き、ファイルとして整理され、ドラッグ&ドロップ、右下にはゴミ箱、という、マックの基本はすでにありました。

これはいいな。以来、僕はヒマさえあればキヤノン販売のショールームに通って眺めていました。当時、マックはキヤノン販売で売られていたのです。

当時のコンピュータ雑誌に掲載されていたキヤノン販売の広告。もちろん、秋葉原に行っても買うことはできましたが。

ライターさんはコンピュータだと言っていましたが、僕には文房具という印象。そもそもコンピュータの画面は黒いもので、呪文のような文字ばかりが並んでいるんじゃなかったっけ?
しかし、この文房具は高額でした。カメラに例えるならばライカの立ち位置。仕事の道具にこんなカネかけるんだったら、マーチンのギターを買いたい。
とは言え、この文房具があると仕事以外でも楽しめるかもしれないしなぁ……

そして、買う。

そんなこんなでウジウジと迷いながら、数ヶ月経った頃、あのライターさんから悪魔のような知らせが届きます。
「あのコンピュータの、カラーのヤツが出ましたよ」
カラークラシックと言うらしい。写真で見ると、モニターを少し上に向けた筐体が、まるで「お座り!」と言われている犬みたいでかわいい。

デコるとこうなるカラークラシック。
『MacBoy』1993年、マガジンハウス刊、より。
スタイリング/石川顕

値段はモノクロの『クラシック2』とそれほど変わらない。
あと必要なものは、プリンターと、ワープロのソフト。これは勧められるままにエルゴソフト(現・物書堂)の『イージーワード』。全部合わせて35万円ほどだったと記憶しています。こうして僕は、アップルの軍門に降ったのでした。

買ったとは言え、会社まで持って行けるコンパクトなものでもない。なので家で書くものはマックで、会社では相変わらず手書きで、という状態が続きます。
ついでに言うと、あの頃ワープロで書いていた人は、せっかくデジタルで書いた原稿をプリントアウトして、その紙にレイアウトや文字の指定を入れて入稿、という無駄なことをしていました。つまり印刷会社の人には、その紙を見て、改めて文字を打ち直すという二度手間をかけていたのです。せめて文字だけでもフロッピーで入稿すべきだ、となるには、まだ数年かかったような記憶があります。

(なお、話はここから本題に入るのですが、すでに3000字を越える長文になってしまった。いったんブレイクしましょうか)

本当は、noteには1000字程度の短い投稿を続けたいのだけど、どうしても欲張ってしまう。かと言って、話を何回かに分けるのは好きじゃないんですよね。

アップルでポパイ一冊作れって?

僕が買うくらいだから、この頃からマックは売れ始めたようです。苦手とされていた日本語への変換も『漢字トーク7』というOSで進化したらしく、テキストや音楽に関する限り、僕は何のストレスもなく使っていました。
そしてその頃、アップルの日本法人では初の日本人社長が就任し、そろそろ本気で日本市場を開拓せねばならん、と考えていたようです。

僕がようやくキーボードの扱いに慣れ、消しゴムを使わないってラクだなぁ、と気づき始めた頃、広告営業の部署から、「アップルがポパイで大量ページの広告を、できれば一冊丸ごと作って欲しいそうなのだが」
という依頼。僕は他人ごとのような気分で聞いていましたが、遠くの方から僕を呼ぶ声が聞こえる。「オマエ、最近そのマックってヤツを買ったよな?」

さぁ困った。ようやくキーボードに慣れたばかりの僕がコンピュータの雑誌を作るなんて、無理に決まってるじゃん、とは思うけれど、ほかの編集者は手書きの人がほとんど。指名されるのも無理ないわけです。
「で、どんな内容がご希望なんですか?」と恐る恐る聞いてみたところ、
「何も決まってないの。今のところ真っ白。ページ数は、180ページ前後かな」
「時期はいつ?」「今年の11月。あと4ヶ月あるよ」「そんな分厚いコンピュータの本を4ヶ月で作るなんて、無謀ですよ」「ま、いいから。ちょっと考えてよ」

一方で、当時のマックユーザーの多くがそうであったように、スティーブとウォズがガレージで… という「アップル伝説」に、僕も少なからず興味を持っていた。その現場を見てみたいという、編集者としての本能がアタマをもたげてくる。

そこで、僕をこの道に誘った例のライターさんはもちろん、何人かの「こういうことに詳しそうな」人たちに相談し、以下の取材ができればこの本はできる(かもしれない)という企画を、広告代理店さんを通じてアップルに提案しました。

● この、ヘンなコンピュータを使う人にはヘンな人が多いから、彼らがなぜ、どのようにマックを使っているのかを取材して回る。人物主体の構成。
● とくにミュージシャンやデザイナーなど、コンピュータとは無縁そうなアーティストほどいい(今では彼らがコンピュータを使うのは当たり前だけど、当時はかなり変わった人だと思われていたのです)。
● クパチーノのアップル本社、社員の方々、およびその周辺取材は必須。
● ついでに、アメリカのユーザーがマックをどのように使っているのか、その幸せそうなようすをできるだけ取材したい。
● ボストンで8月に開催される『MacEXPO』には行くべきでしょう。
● トリセツページは退屈だから、最低限に抑える。カタカナの専門用語は、できるだけ使わない。使っても必ず解説を入れる。

返事はすぐに返ってきました。何と「全部OK!」。ユーザー取材は個別にアポを取ってほしい、とのことだけど、本社取材やボストンでの取材はすべて段取りを組んでくれるらしい。これはつまり、作らなくてはいけなくなった、ということを意味します。さぁ、いよいよ困りました。

結局行くことになった、ボストンでのMacEXPOのパンフレット。細かく見ると、時代がわかりますね。

すべては”パソコン通信”で始まった。

まず最初に途方に暮れます。おもしろいユーザーを取材して回る構成、となれば、最低でも30人くらいは出さないとカッコ悪い。しかし、そんなに大勢のおもしろそうなアメリカのユーザーを、いったいどうやって探せばいいのだろう?

そこで使ってみたのがアップルリンクの掲示板でした。アップルリンクとは、当時のマックユーザーをつないでいたパソコン通信で、日本ではあまり使われていた記憶はないけれど、アメリカではかなり普及しているようでした。
最初は「5〜6人くらい返事があれば上等かな」。と甘く見ていたので、無謀にも、まだ見ぬ全米のマックユーザーに向けて、こんな声をかけてしまいました。

「この夏、ジャパンのポパイというマガジンが、ボストンと西海岸までマックユーザーの取材に行きます。ついては日〜日の間はボストン界隈で、日〜日の間はベイエリアで、日〜日の間はLAあたりで、都合のいい人は連絡ください。頼むぜ、あなただけが頼りです」

すると翌日のんびり会社に行ってびっくり。何と500通を越える返事が届いていました。しかもそんな状態が一週間近く続きます。コンピュータが電話回線で繋がるだけで、すごいことが起こるんだな、と、これが初めて驚いた瞬間でした(繰り返しますが、このときはまだインターネットではないし、ネットが普及した後も、これほどの反響を経験したことはありません)。

中には誰もが知っているミュージシャンや宇宙飛行士、公開間近だった映画『ジュラシックパーク』のCG担当、創刊して間もない雑誌WIREDの編集部、意外にお医者さんが多く、そしてアップルの社員たちはもちろん、創業者、スティーブ・ウォズニアクの名前まであった。さすがに、当時はアップルから追い出されていたスティーブ・ジョブズの名前は無かったんだけどね。

まだインターネットは無かったけれど、パソコン通信の威力に驚いて、こんなページも作りましたっけ。今見ると原始時代の話のようですが、何やら大きな変化が起きそうな予感は伝わるでしょうか?

こりゃ大変だ。何より、返事を読むだけでも大変なのだ。これだけの英語の文書を正確に読み、選り分けてアポイントを取るには、僕の英語力では到底不可能だ。
とりあえず、担当の広告代理店さんの外国人スタッフ数名に相談し、協力してもらう。この人たちが本当によく動いてくれた。そして全貌が明らかになるにつれ、今度はこんな凄い人たちにホントに会えるのだろうか? という不安に変わる。

超大物ジャズピアニストが降臨。

だって、これほどすごい人たちが、都合良くスケジュールを合わせてくれるとは思えない。ほとんどの人が、冷やかしで返事をくれただけなのかもしれない。
そんな僕に自信を与えてくれたのが、何と、ある超有名な世界的ジャズピアニストでした。名前の公表は控えますが、ジャズを聴かない人でも、その名前くらいは聞いたことがあるはずです。

「キミたちがこっちに来る前に、オレが東京に行くけど、そこで会わないか?」
まじですか? 本当に会ってくれるんですか? そしてもしも他のアポ取りがうまく進まなかったら、あなただけで8ページくらい使ってもいいですか?

当時は青山にあったブルーノート東京の控え室で、グランドピアノを前にした彼が歓迎してくれた。コンピュータが無ければできなかった音楽の話を、キーボードを叩きながら(これはピアノのキーボードです)一時間ほど。なんと贅沢な時間だったのだろう?

後でわかったことなのだけど、彼は音楽の取材はめったに受けないけれど、マックの話だったらいいよ、ということで引き受けてくれたようだった。そのくらい、当時の多くの著名人が、このコンピュータについて語りたがっていたのです。

そして、コンピュータの取材という、慣れない仕事でアメリカへ。

超大物ジャズピアニストと話しながら、この雑誌の台割り(雑誌全体の構成)がようやく見えてきた。一方で、広告代理店さんからの報告によると、返事をくれた人たちは誰もが皆本気で、詳しい日程も出してくれているとのこと。
そして何よりうれしいことに、雑誌の名前を冠する以上、国内取材ほかの編集はポパイ編集部が担当してくれるとのこと。これでアメリカ取材に集中できる。

ということで、詳細のスケジュールは、現地コーディネーターさんにお願いすることができた。まだいろいろ不安もあったけれど、頼れるライターさんも一緒です。どうにかなるでしょう、ということでアメリカへ。
(なお、雑誌は絶版になっているとは言え、内容は詳細に紹介できないことが多いので、印象に残った部分だけをお話ししたいと思います)

ボストンのMacEXPOで、主な話題は新たに発表された超小型端末の『Newton』だった。この会場には『アドビ』などの大手から、スクリーンセーバーでおなじみの『アフターダーク』まで、大小さまざまな開発者が、まるで築地場外市場のように並んでいました。
ニュートンを開発した女性、ジンジャーさんのご自宅にもお邪魔した。これ、赤外線で通信できるんですよ。いっそ電話になればいいのに、と思ったもんです。

ボストンでも、EXPOのほかに一般ユーザーの仕事場やご自宅を訪ねた。
その多くがお医者さんだったことが意外と言えば意外。その理由は、当時のMacにオマケでついていたハイパーカード。これは自作でいろいろ作れるデータベースのようなもので、写真も貼れるし、カルテの作成にとても都合がよろしいとのこと。

当時クパチーノにあったアップル本社の敷地は、キャンパスと呼ばれていた。砂漠の中に部門ごとの建物が点在する、とても広大な敷地。ホテルもあり、僕たちはそこに数日間泊まり込んで取材を続けた。社員の皆さんは、自転車やスケートボードを使って、それぞれの建物を移動する。

アップルの社員の方々にも、10人以上はインタビューさせていただいた。その多くは「自宅においでよ」というもの。
部署は様々だったけれど、彼らの暮らしに共通していたことは、家に家庭菜園があること、ほとんどの人がギターを弾くこと。聞いた話によると、創業間もない頃、ボーナスが出ないことがあり、その代わりにギブソンの《335》というギターが配られたらしい(けっこう値の張るギターです。だったら現金でもいいのに)。だから社歴の長い社員の家には、たいていこのギターがあるそうです。

モニターの開発一筋だったこの人。彼の家にもギブソンの335があった。ご自宅はゴールデンゲートブリッジを渡ったミルバレーにあり、ここから160kmも離れたクパチーノまで、1200ccのスーパーバイクで通勤するというツワモノでした。
創刊後間もない『WIRED』編集部。当時は(今もかな?)サンフランシスコの倉庫街にあり、倉庫をリノベした編集部が誌面と同様にカッコよかった。ドラム缶がたくさん並んでおり、その上に板を置くだけというデスク。誰もが話しかけてくる開放的な雰囲気。やはり、雑誌の編集部はこうじゃないと、ね。
今でもあるのかどうか。当時、全米の多くの地域には、マッキントッシュ・ユーザーグループというものがあって、このような意見交換会も行われていた。ここはバークレーのユーザーグループ、通称BMUG。最大手のユーザーグループで、UCバークレーの階段教室を使っての『Newton』見せびらかし大会が行われていた。何となく、学生運動が盛んだった頃の雰囲気。

などなど。この取材で見たものについてはいくらでも話せますが、キリがなくなるのでこのへんで。

間もなくインターネットが始まる。

この雑誌は発売後3日間で100%完売し、その頃は雑誌の増刷ができなかったので、幻の雑誌となってしまいました。どこかのオークションに出ているかもしれないけれど、もう30年も前の雑誌だから、骨董的価値しか無いかもしれません。

その後のアップルは、倒産が噂されるほどの業績不振の中、1996年にスティーブ・ジョブズが年俸たったの1ドルで復帰。98年にiMacをヒットさせ、次にはiPodをヒットさせ、以降の復活劇は広く知られている通り。

この雑誌が出て半年後くらいに、僕はほかの編集部に異動し、そこには15年も在籍することになりました。
その編集部には異動当初から一台だけマックがあったので、まずはパソコン通信。それからインターネットに繋がるのは意外に早くて、1994〜5年だったはずです。

思えばインターネットというものは、「さあ、いよいよ本日、インターネットが開通します!」という司会者の声と共にドラムロールが入って、くす玉が割れて、というような、目に見える始まり方をしませんでしたね。静かにじわじわと広がって行きました。そして不思議なことに、あれほどデジタルとは無縁だった僕の周りでも、あっという間に普及していました。

当初はネットも電話回線を使っていましたっけ。
起動すると、しばらくの間は間違えてFAXに電話をかけてしまったような、「ピー、ピー、ガアーッ」というノイズが聞こえ、やがてNetscapeを通じてYahooのトップページへ。このYahooって、あの取材の途中にスタンフォード大学で見た、あのロゴだな。僕はずっと「ヤッホー」と読むものだと思っていました。

そして20世紀の最終盤、難しい設定無しにネットに繫がる、初代iMacが発売されます。社内にはLANが敷かれ、電子メールが使えるようになりました。当初、会社のエラい人からは、「今、メール送ったから」という無駄な電話がかかって来ていましたが、やがてそれも無くなり、編集部は徐々に静かになります。
そして念願のデジタル入稿が始まりました。これでようやく印刷会社の人たちは、ワープロで書いてプリントされた原稿を改めて打ち直すという、空しい作業から解放されたわけです。

まとめ:アナログとデジタルの、いい関係を探りたい。

という具合に、デジタルの技術が導入されて、人は退屈な作業からは解放されました。一方で、デジタルに頼り過ぎると、人はこれまで積み上げてきた大切なものを失ってしまうことも多いのではないか。デジタル化が進むと共に、僕が雑誌の現場でモヤモヤし始めた思いを、最後に箇条書きでまとめておきたいと思います。

● かつてデザインの現場では、1mmの間に手書きで何本も線を引けるか、などを競っている職人たちがいました。そして、そんな職人気質のデザイナーに「こんなことできない?」という難題を吹っかけても、「どうにかしましょう」というベテランの技で解決してくれたものです。
しかしデジタルに移行した後は、デザイナーのセンスやスキル以前に、アプリケーションでできるかどうか、という話にすり替えられてしまうようになりました。

● デザインに限らず、「何ができるか」は人の能力ではなくてアプリ次第。となれば、人は仕事のスキルではなく、いかに最新アプリの情報やサービスを知っているかによって信用されて行く。かつてのベテランたちが誇った「経験と勘」のようなものは、日常のあらゆる場面で出番を失ってしまいます。もったいない。

● ネットが出てきて雑誌が売れなくなる。それはしかたのないことです。文句があるなら、雑誌ならではの、ネットにはできないものを作ればいいんです。

● しかし一方で、大部数を必要としない、丁寧に作られた書籍や雑誌は増えているようです。選書で頑張る本屋さんの棚を覗くと、大手出版社と同等に、「ひとり出版社」からの出版物も目立つようになりました。
これは、アナログのレコードやフィルムカメラが流行るのと同じ理屈なのかもしれない。そして、そんな手作りの出版を手伝うのがデジタルの技術。しかもネットやSNSを使って販促ができる。だから欲張らなければ必要な数は売れる。
このようなアナログとデジタルの融合には、いろいろな希望を感じます。

● 今、30年も前に作った雑誌を眺めながら強く印象づけられることは、あの頃、主役はあくまでもコンピュータを使う「人」であったということ。コンピュータなんて必要な時だけ使えばいいし、必要が無ければ電源を落とせばよかった。デスクトップ機がメインの時代であれば、机を離れれば自ずと人は個人に戻れました。

● しかしiPhoneが現れて以降、コンピュータはどこにでもついてくるようになった。あの頃に語られていたデジタルハブ構想(情報やコミュニケーション、音楽や映像などのエンタテインメントを、すべてひとつの機器でまかなうという構想)がデスクトップ機止まりであればともかく、それを外に持ち出してしまった。もっとも、さらに小さく、楽しいものが欲しくなれば作ってしまうのが開発者というもの。問題があるとすれば、作る側ではなくて使う側なのでしょう。

おかげで、アップルは時価総額で世界のベスト3を争う企業になりました。
それによって、多くの人が電源を切れなくなりました。この状態について、この雑誌に出てくれた人たちは、今、どう思っているのだろう? 
誰かもう一度、そんな取材をしてきてくれないかな。

今回の投稿も異常に長くなりました。一万字を越える前に撤退したいと思います。
ここまで読んでくれた方、どうもありがとうございました。

おしまい。

























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