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徳佳子、イカカレーが介護食と - カレー回文の物語 -

町外れに静かに佇む老人ホーム「慈雨苑」。かつては郷土資料館だったというその建物は、風格ある和風の外観を持ち、白い壁には時の流れが刻んだ深い亀裂が走っていた。屋根瓦は風雨にさらされて色あせ、その上に舞い降りた枯葉が季節の移ろいを物語っている。

建物を囲むように広がる庭園には、四季折々の花々が咲き誇っていた。春には桜が淡いピンクの花びらを風に乗せて舞い散らせ、夏には紫陽花が雨に濡れて輝きを増す。秋には紅葉が燃えるような赤に染まり、冬には雪化粧をまとった梅が可憐に咲く。その庭では、入居者たちが時折ベンチに座って日向ぼっこを楽しんだり、ゆっくりと散歩をしたりしている。鳥のさえずりや木々のざわめきが、穏やかな時間を演出していた。

「慈雨苑」で働くのは、30代半ばの男性、武史。背が高く、柔らかな黒髪が額にかかる彼は、いつも優しい笑顔を浮かべていた。彼の瞳は深い茶色で、誰に対しても温かい眼差しを向けている。その人懐っこい笑顔と、誰にでも平等に接する誠実さは、入居者たちにとって心の支えとなっていた。

武史の主な仕事は、食事の準備や清掃、そして何よりも入居者たちとのコミュニケーション。彼は一人一人の話に耳を傾け、その心の声を聞くことを何よりも大切にしていた。

ある朝、朝露が庭の草花に輝きを与える中、武史は食堂で朝食の準備をしていた。新鮮な食材が並ぶキッチンは、彼の手際の良い動きで活気に満ちている。窓から差し込む柔らかな朝日が、白い壁を暖かく照らしていた。

その時、背後から柔らかな声が聞こえた。

「武史さん、今日の昼食もイカカレーにしていただけるかしら?」

振り向くと、そこには徳佳子が立っていた。彼女は70代半ばの女性で、銀色の髪は肩まで伸び、上品にまとめられている。細やかな皺が刻まれたその顔立ちは、どこか少女のような無邪気さを残していた。深い湖のような澄んだ瞳は、遠くを見つめているようでありながら、しっかりと武史を捉えていた。

「おはようございます、徳佳子さん。もちろん、喜んでお作りしますよ」

武史は微笑みながら答えた。彼女のリクエストはいつもイカカレー。しかし、その理由を尋ねるたびに、彼女はただ静かに微笑むだけだった。

「ありがとう、あなたの作るイカカレーは特別なの」

彼女はそう言って、そっとその場を去っていった。彼女が歩くたびに、足元の床板が微かにきしむ音が聞こえた。

その日の昼下がり、太陽が高く昇り、外では蝉の声が響いていた。武史はキッチンでイカカレーの準備を始めた。新鮮なイカを丁寧に下ごしらえし、薄く切った玉ねぎを炒めると、甘い香りが立ち上る。スパイスを調合し、鍋に加えると、豊かな香りがキッチン全体に広がった。

彼は鍋をかき混ぜながら、ふと窓の外に目をやった。青々とした木々の間から差し込む陽光が、揺れる影を作り出していた。

「徳佳子さん、今日も喜んでくれるといいな…」

彼はそう呟きながら、心の中で彼女の笑顔を思い浮かべた。

昼食の時間になり、武史は特製のイカカレーをトレーに乗せて、徳佳子の部屋へと向かった。廊下を歩くと、壁に掛けられた古い写真や絵画が目に入る。過ぎ去った時代の面影がそこにあった。

彼は静かにノックをし、ドアを開けた。

「お待たせしました、徳佳子さん。特製のイカカレーですよ」

部屋の中は薄暗く、レースのカーテン越しに柔らかな光が差し込んでいた。窓辺の椅子に座る彼女は、遠くの景色に視線を投げかけていた。彼女の前には、小さなガラスの置物が並べられており、それらが光を受けて淡い虹色の輝きを放っていた。

彼女はゆっくりと振り向き、その顔に穏やかな微笑みを浮かべた。

「ありがとう、武史さん。あなたのイカカレーを待っていたの」

彼女の声は穏やかで、しかしどこか儚げでもあった。

武史はテーブルにカレーを置きながら、意を決して尋ねてみた。

「徳佳子さん、もし差し支えなければ、なぜ毎日イカカレーを召し上がるのか、お聞かせいただけませんか?」

彼はその瞳を真っ直ぐに見つめた。彼女は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。

「そうね…あなたにはお話ししてもいいかもしれないわ」

彼女は手招きし、窓辺の椅子の隣にある小さなスツールを示した。

「座ってちょうだい」

武史は静かに頷き、その場に腰を下ろした。彼女の横顔は淡い光の中で、まるで一枚の絵画のように美しかった。

「昔、私がまだ若かった頃のことよ」

彼女は遠い目をしながら語り始めた。

「私は海辺の小さな町で育ったの。毎日、砂浜を裸足で歩き、波の音を聞きながら過ごしていたわ。海は私の全てだった」

彼女の声には懐かしさとともに、深い愛情が込められていた。

「ある日、嵐の後の浜辺で、小さなイカが打ち上げられているのを見つけたの。透き通った体で、まだ息があったわ。私はそっと手に取り、海へ戻してあげたの」

彼女の手が微かに動き、その時の感触を思い出しているようだった。

「その瞬間、彼は一瞬だけ美しい虹色に輝いたの。まるで感謝の気持ちを伝えるように」

武史は彼女の言葉に引き込まれ、まるで自分もその場にいるかのように感じた。

「それからというもの、不思議なことに海に行くたびに、彼が私の前に現れるようになったの。最初は偶然だと思っていたけれど、彼の色の変化や動きで、私たちは心を通わせるようになったのよ」

「イカと…会話を?」

彼は信じられない思いで尋ねたが、彼女の真剣な表情に嘘は感じられなかった。

「ええ。言葉はなくても、心で感じることができたの。彼は海の美しさや、生きることの喜びを私に教えてくれたわ」

彼女の瞳には、涙がうっすらと浮かんでいたが、その表情は幸福に満ちていた。

「しかし、永遠は続かないものね。彼はある日、私に別れを告げたの。自分の寿命が尽きる前に、大切なものを託したいと言って」

「大切なもの…?」

彼女はそっと小さなガラス瓶を取り出した。その中には、深い黒色の液体が静かに揺れていた。

「これは彼が私に残してくれたイカ墨なの。彼は『これを使って、私たちの絆を永遠にしてほしい』と言ったわ」

武史はその瓶を見つめながら、言葉を失っていた。瓶越しに見える彼女の指先は、細く繊細で、微かに震えているように見えた。

「私はこの墨を使って、彼との思い出を形にしようと思ったの。でも絵を描くことは得意ではなかった。だから、彼の存在を感じられる方法を探したの」

彼女は一息ついて、穏やかに続けた。

「それが、イカカレーだったの。彼のイカ墨を少しだけ加えることで、彼と一緒に食事をしているような気持ちになれるのよ」

武史は胸の奥が熱くなるのを感じた。彼女の物語は幻想的でありながら、深い愛情と絆に満ちていた。

「徳佳子さん、そのお話を私に聞かせてくださって、ありがとうございます」

彼は静かに言葉を紡いだ。

「あなたのために、これからも心を込めてイカカレーを作らせていただきます。そして、もしよろしければ、その絆を感じるお手伝いをさせてください」

彼女は微笑み、その瞳には温かな光が宿っていた。

「ありがとう、武史さん。あなたには不思議と心を開くことができるの。まるで彼があなたを通して、私に語りかけているような気がするわ

それからの日々、武史は徳佳子との時間を一層大切にするようになった。彼女の部屋を訪れるたびに、新たな物語や思い出が彼を待っていた。

ある夕暮れ時、橙色の光が廊下を染める中、武史は徳佳子の部屋をノックした。

「どうぞ」

優しい声が返ってきて、彼はドアを開けた。部屋の中は柔らかな光に包まれ、窓の外には赤く染まった空が広がっていた。

「今日は特別なイカカレーを作ってみました。新しいスパイスを少し加えてみたんです」

彼はトレーをテーブルに置き、彼女の反応を待った。

「まあ、楽しみだわ。あなたの創意工夫にはいつも驚かされるわね」

彼女は微笑みながら、カレーの香りを楽しんだ。

「ところで、武史さん」

彼女はふと真剣な表情になり、彼を見つめた。

「あなたはどうして、ここで働こうと思ったのかしら?」

突然の質問に、彼は一瞬戸惑った。しかし、彼女の瞳に映る真摯な関心を感じ取り、静かに答え始めた。

「実は、僕の祖母が認知症を患っていて、最後は何も覚えていなかったんです。でも、彼女が笑顔を見せてくれるときがあって、その瞬間がとても嬉しかった。だから、誰かの心に寄り添う仕事がしたいと思ったんです」

彼の言葉に、彼女は深く頷いた。

「そうだったのね。あなたの優しさは、そんな経験から来ているのね」

彼は照れくさそうに笑った。

「まだまだ未熟ですけど、皆さんのおかげで毎日学ばせてもらっています」

「あなたはとても立派よ。これからもそのままでいてちょうだい」

彼女の言葉に、彼は胸が熱くなるのを感じた。

季節は巡り、木々の葉は色づき始めた。ある日、武史は徳佳子に提案をした。

「徳佳子さん、もしよろしければ、一緒に海へ行ってみませんか?」

彼女は目を輝かせた。

「海へ…?本当に?」

「はい。天気も良さそうですし、きっと素敵な時間を過ごせると思います」

彼女はしばらく考えてから、静かに頷いた。

「ありがとう、武史さん。ぜひ連れて行ってちょうだい。」

その日、武史は車椅子に座る徳佳子を連れて、海へと向かった。道中、彼らは様々な話を交わした。窓から見える風景、過去の思い出、未来への希望。

海に着くと、波の音が心地よく耳に届いた。潮の香りが風に乗って運ばれ、彼らの頬を撫でた。

「懐かしいわ…」

彼女は目を閉じ、深く呼吸をした。彼女の髪が風になびき、その横顔はとても穏やかだった。

「ここで待っていれば、彼に会えるかしら」

彼女の呟きに、武史はそっと寄り添った。

「きっと感じることができると思いますよ」

彼らはしばらく無言で海を見つめていた。太陽が水平線に近づくにつれ、空は黄金色に染まっていった。

突然、小さな波が彼らの足元に打ち寄せ、光る何かが砂浜に残された。

「見て、あれは…」

彼女は指差し、その瞳は驚きと喜びで輝いていた。そこには小さな貝殻があり、中には微かに黒い液体が溜まっていた。

「これはきっと贈り物ね」

彼女はそっと貝殻を手に取り、微笑んだ。その表情は、言葉にできないほどの喜びと感謝に満ちていた。

武史はその光景に胸を打たれた。彼女の世界が現実と交錯し、目の前に広がっているようだった。

「徳佳子さん、僕、これからもずっとイカカレーを作ります。」

彼女は深く頷き、二人は静かに海を見つめ続けた。

その後も、「慈雨苑」での日々は穏やかに過ぎていった。徳佳子の物語と、武史の心の成長。それはまるで、イカ墨で描かれた一枚の絵画のように、深く豊かな色彩で彩られていた。

ある夜、武史は自室で今日の出来事を思い返していた。窓の外には満天の星空が広がり、静かな夜の音が彼の耳に届いた。

「大切なのは、相手の心に寄り添い、その世界を共に感じること…か」

彼はそう呟き、そっと目を閉じた。瞼の裏には、徳佳子の微笑みと、輝く海の風景が浮かんでいた。

「明日も、心を込めてイカカレーを作ろう」

彼は新たな決意を胸に、深い眠りについた。

そして、武史は気づいていた。徳佳子だけでなく、他の入居者たちも、それぞれの物語と世界を持っていることを。彼はこれからも、その一つ一つに耳を傾け、共に歩んでいくことを心に誓った。

それが、彼がここで働く理由であり、彼自身の物語でもあるのだから。


「PALINDROMICAL - The stories of curry palindrome」は、カレー回文師 であるS.Nekoyamaが不定期に発行するZINEです。このZINEは、カレーに 関連する回文をテーマにしたストーリーを紹介しています。バックナンバー・最新など他のストーリーは以下のサイトからPDF版の購入が可能です。(PDF版は日本語・英語の両表記です。)


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