【長野県阿智村】武田信玄終焉の地阿智村散歩 三州街道の街 駒場宿 22.12.17_11:00
阿智神社の参拝帰り三州街道の駒場宿に立ち寄った。
三州街道は信濃と三河を結ぶ街道で、中山道の塩尻を起点として、天竜川沿いに伊那谷を南下して下伊那の駒場を経て参集の岡崎で東海道に合流する。
この三州街道を武田信玄は西上作戦の折、大軍を率いて南下していった。
三河の地、三方原で徳川家康と織田信長の連合軍をこてんぱんにして、野田城を攻略中に体調を壊して転進。
甲府へと三州街道を戻る途中、駒場の宿で命を落としたと言われている。
肺結核、胃癌などと病名は色々言われて入るが、甲府を出陣したときにどれほど自覚があったのだろう?
本人が重い病だと気がついたのはどの時点だったのだろう?
そもそも、西上作戦の目的は京都上洛ではなく、三河平定ではなかったのかという説も。
そうなると、将来の武田家への憂いを除くための一大決心だったのかも知れない。
って重要なところを歴史学者はどうしてもう少しちゃんと調べないのか?
いつもながら、学者の想像力の乏しさには驚かされる。
戦国斎場と歌われた武田信玄はこのあたりでなくなったことは事実。
籠だろうけど瀕死の体で峠越え。きつかっただろうなぁ。死ぬかと思った・・・って、死んだんだけど。
その時家臣団はどう思ったか。そして、息子の武田勝頼は・・・。
戦国最強の自覚があって、上洛まで本気で考えていたのなら、まさかあっという間に武田家がなくなってしまうとは思わなかっただろうな。
そして、この道を約10年後、織田信長の軍勢が甲斐を目指して攻め上ることに。
行ったり来たりの運命。
その後、織田信長もあっという間に本能寺にて・・・
裏切りの卍固め。
最後に笑ったのが徳川家康とは・・・
当然だけど、そんな駒場の宿に当時の面影はない。
かといって、近代的な雰囲気も一切ない。
でも商業的ではない、生活感の有る、いい雰囲気の宿場跡が楽しめる。
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