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伊那出張編 高遠の建福寺で諏訪御料人の墓参り 21.10.09_13:45
鉾持神社からほど近いところに建福寺がある。
文覚上人の創建で、武田信玄の帰依により駿河の臨済寺から東谷宗杲禅師を招いて中興。
武田勝頼が高遠城主であったときに武田家菩提所となり、母親の諏訪御料人を埋葬した。
城下からだと建福寺参拝には長い石段を登らないとならないのだが、鉾持神社からだと上がった標高をスライドできる脇道があるので、そこをつたえば寺の脇腹にたどり着ける。
武田家や保科家の菩提所だった建福寺は石仏群でも有名。
本堂山門脇に高遠石工により作られた45体もの石仏が祀られている。
高遠といえば蕎麦と並んで鎌倉時代から続く石工職人の街だそうだ。
考えれば伊那谷の街の角々、寺院の境内には実に石仏がたくさん置かれている。
こんな山の中で石工という文化が何百年も続いていたという事実。
伊那って本当に不思議なところだ。
建福寺は石仏を除けば境内は新しい雰囲気。
長い石段が特徴になるのか。
境内の裏に回ると墓地が広がりその手前に諏訪御料人、保科正直、保科正光の墓が並んで立っている。
微妙な時代感。この三人の墓が並んでいる違和感。
諏訪御料人は伊那の代官だった武田勝頼の母親だから、諏訪に葬られていた墓を改葬したそうだ。
勝頼は結局この地も後にするのだが・・・。諏訪御料人だとなんとなく透明感を感じるのだが、伊那御料人だと・・・だいぶイメージが・・・。
保科家は、武田家以前の城主高遠家臣団筆頭の地位にあったらしい。保科正直は武田氏の信州攻略で高遠氏が滅亡すると武田の傘下に入る。武田家滅亡の際には高遠城で奮闘したらしいが最後は落ち延びたそうだ。
程なく本能寺の変がおこり、北条氏の後ろ盾を得て高遠城を奪還。後に徳川の傘下に入り江戸時代を迎える。
正直の子正光は、小牧長久手、小田原征伐に徳川方として参戦。徳川関東入府に際して下総に1万国を与えられるが、関ヶ原の戦い以降、高遠に戻っている。
その正光が徳川二代将軍秀忠の庶子を養嗣子として家督を相続させたのが正之。後に出羽20万石、会津23万石へと出世していくが、幕末の悲劇は知るはずもない。
将軍の隠し子を託されるくらいだから、よほど徳川に信頼されていたのだろうか?
正之も松平姓を許されても正光の恩を忘れず終生保科姓のママ通したらしいので、よほどの人物だったのだろう。
ただ、そうなると墓が小さい気がするのだが・・・と思ったら、このお墓は、三代目会津藩主保科肥後守正信の命により再建されたものらしい。
難しいことはわからないけれども、墓というよりモニュメントに近いものなのかな?
高遠の歴史が博物館のように凝縮されている気がする。
保科家の運命もすごいけれども。