ギャラリーオーナーの本棚 #15『ダーウィンのミミズ、フロイトの悪夢』 ダーウィンのもう一つの闘争
この本は2022年10月15日から11月3日までGallery Pictorで個展を開催したアーティスト・小野久留美さんが教えてくれたものです。
小野さんは、写真を土に埋めるというめずらしい手法で作品を制作しています。写真は一般的な上質紙のような紙に染料インクで印刷しているため、土に埋めた写真はインクが滲み、色合いも変化し、紙は水分を吸って波打ち、時には破れていることもあります。
彼女がこのような制作手法に辿り着いたのは、物事はすべて変化していくものであるということと、それを留めておきたいという人間の感情に興味があったからだと言います。また、土に埋めることを繰り返すうち、地中の生物や非生物、そこで起こる現象と私たち人間との関係性を考えるようになったとか。
ダーウィンが生涯取り組んだミミズの研究
チャールズ・ダーウィンが何をした人か、多くの人が知っています。生物は変異しながら繁殖し、環境に適応した変異形が生き残る。いわゆる自然淘汰説ですが、1859年に出版した『種の起源』でそれを発表しました。
では、ダーウィンが半生をかけてミミズの研究に取り組んだことをご存知でしょうか? 私は知りませんでした。
自然淘汰説の研究のきっかけとなった、大英帝国の測量船ビーグル号の航海から戻ったダーウィンに、取り立てて刺激的とは思えないミミズへの関心を喚起したのは、叔父のジョサイア・ウェッジウッド2世でした(今では高級陶磁器ブランドとして有名なウェッジウッド)。屋敷の庭に放置しておいた石灰や石炭殼が、跡形もなく消えてしまったのは、どうやらミミズの仕事らしいんだよ、と話したことがきっかけだったとか。
その後ダーウィンは、この小さな無力そうな、そして明らかに「下等」とみなされている生き物が、地中の物質を消化し排泄することで、肥沃な地層を形成してくれていることに注目しました。ミミズの研究は1837年に論文「沃土の形成」を発表してから、死の前年の1881年に出版した最後の著書「ミミズの作用による沃土の形成」まで、生涯に亘って続きます。
ダーウィンの階層主義への対抗
1859年に「種の起源」が発表されると、ダーウィンは神学論争の渦中に立たされます。キリスト教世界では、天地とそこに生きるすべての生物は神が創造したものであり、人間はその頂点に立つ最も「高等な」生き物です。それが、「下等な」生き物と「高等な」生き物の間には連続性があるとするダーウィンの進化論は、当時の西洋社会の根底にあった世界観をひっくり返すインパクトを持っていました。
また、ダーウィンの進化論は、本人の意図しない意味に歪曲されて理解されました。それは、「下等」から「高等」へ「進歩」したという見方です。ダーウィン自身は、個々の生き物はそれぞれの環境に適応し、「進化」しただけで、それは多様性の増大でしかないと説明していたのに、より "有能" で "優秀" な生物に「進歩」した、というように喧伝されてしまったのです。これは後に、熾烈な生存競争を正当化する自由主義経済や、白人至上主義などの人種差別の根拠としても悪用されるようになっていきます。
ダーウィン自身は非常に裕福で教育レベルの高い家系に生まれました。父も祖父も医師、叔父は実業家として成功したウェッジウッド、本人もケンブリッジ大学卒で、階層意識の強い19世紀イギリス社会の中でも「高層」にいたことは明白です。
そんなダーウィンですが、生物学の研究を通じて、すべての生物の連続性に気付いたことは、階層主義への疑問につながったのではないでしょうか。さらにミミズの研究を始めたことで、「高等」とみなされていた人間が、このミミズたちの「土を耕す」という仕事に支えられていたことや、その仕事に関しては人間などミミズの "足元にも及ばない" ことを理解し、生物学者として論文や著書を通じて倫理的な問いを投げかけていたと言えます。「最下層」とみなされている生き物の偉大な仕事を伝え続けることが、ダーウィンの階層主義への対抗だったのでしょう。ダーウィンは亡くなる前に、次のような言葉を残したそうです。
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