心配症なエキセントリック
どうも、こんにちは
20分間走って、久しぶりに勉強しました
集中力が続かなくて2時間もしてないけど進歩してる
人とのコミュニケーションができなくなってる
今回の鬱で直面したコミュニケーションの課題は人によくしすぎて自分が逆に疲れるということである。時間がかかりそうだけど治します。
愛想良くしすぎても自分が疲れるだけなんだなと思いました。もっと楽に生きられる。過剰反応ってやつ。
クールとはいささか遠い私ですが、最近色々思うことがあり、自分の考え方がアップデートされている気がします。
小さい頃からみんなと同じは嫌であるという思考傾向が強く、1人でいる時間も長く、自分の世界に閉じこもっていることが多かったです。
I am エキセントリック 変わり者でいい
という歌詞は欅坂の名曲?ですが高校生の時はこの歌詞に衝撃を受けました
理解されなくていい
そんな考え方もあるなと今になって思う、いや人とは違いすぎて所詮理解はされないだろうというある意味諦めに近い気持ちになるのも今となってはわかる
コミュニケーションの問題点は色々あるけど、愛想良くしすぎて自分が勝手に疲れる、話を振られると気合いが入りすぎてベラベラ話すぎてしまう、そして極めつけは見た目だと思うのだが「話しかけやすそう」である。これは神田橋語録にも書いてあったけど大変仕方ない躁鬱病の人の気質だなと思う。
神田橋語録を読んでいると躁鬱が病気ではあるというのは認めた上で気質に近いということを実感する
双極性障害の人には神田橋語録おすすめです、たまに読み返すと「あーこれも病気の特性か、仕方ないな、」と思うようになります
最近のコミュニケーションの悪いところは鬱が残っているのか人に対して語尾が攻撃的になってしまうということです
役所とか窓口の人もサービス受ける側もそれなりにイライラしているからすごいストレス。
疑問系がつくとなんだか怒りがセットになってしまっている気がする、攻撃的というか威圧的なのか、、、どうにもならないからとりあえず人前に出ることにしている
今日はchat GPTに計画立ててもらったけど、疲れたしなんかやる気にならなくて午後はダラダラ過ごした
GPTによく昔のことを人は覚えていますか?って聞くと「その人との関係性やその時の状況によります」って言われちゃって困る。
それって相手次第じゃんとも思うし、他人の頭の中なんてわからないから考えたって仕方ないじゃんてなったけど、エキセントリックな私の考え方はその人の考えている「人間」についての手持ちを100として、その人と自分とかその人の人間についての割合を考えることで100を振り分ける方法について考えている
多分、すごい時間の無駄だけど対人関係で悩むとなんだかそれくらい考えないと気が済まないくらい不安である
そういえば 自分のその人に対しての興味はその人の自分への興味に一致しないということをなんかで聞いたこともあるけど、その通りだなと思う
普通の人間が他人に対しての興味が100だとすると自分の他人に対しての興味は10000くらいあるんじゃないかと思う。正しくいうと「自分のことを気にしていたらどうしようという心配」の手持ちがすごく大きい、そこが心配症という部分につながっているのかなと思う。
心配症の原因は色々あるけど、それは明日にしよう
つらつらと書いていくので読んでくれたら嬉しいです
昨日実験的に始めたのが良くて休学してた時みたいに書いていこうと思います
ためにはならないしつまらないかもしれないけどスキくれたら喜びます
それでは
またね