かっぱちゃん
河童に会った。
子供の河童だから、かっぱちゃん、だ。
午前中とはいえ、すでにピークとも思える暑さの中を出かけたのは、今日が投票日だったからだ。そしてこれまた、なかなかに熱気ある投票所を後にすると、最寄りの図書館に駆け込むように入った。そのつもりで返却する本を持って来ていた。
カウンターまで長い列ができている。少しぐらい並んだっていい。ひんやりとした室内に思わず顔がゆるむのを感じながら、帽子をとった。列の最後につく。本をバックから出そうとして、後ろに誰かいるのに気づいた。
振り向くと、小学校一、二年生くらいの女の子だった。大事そうに本を抱えて立っている。 オシロイバナの葉っぱみたいにつやつやした緑色のワンピースを着て、くつはツユクサ色。こっちを見て、にこにこしている。
あれ、と思った。 この感覚は、この見え方は、夢に似ている。 はるか遠くにあるはずのものが細部まで見えたり、あまりに接近してるから視覚に入るはずがない全体までが見えている、あの、夢の中での自在な距離感で世界を見る感覚だ。
「これから海に行くの」女の子は私の顔を見上げていった。思わず目線を合わせようとしゃがんだ。本を抱える腕の隙間からタイトルにある「海」の文字が見える。おや、この本は。前に見たような気がする。いつだったろう。
「ともだちとこの本を読みたくて」その声が秘密のお願いをされたときみたいに直接耳に聞こえて、私は本から目を離すとその子の顔を見た。すると、そこにいるのは、つやつやな緑色の身体をして、頭にはくりぃむ色のお皿がある河童だった。
ああ、河童か。
私は、なんだか嬉しくなって、笑みがあふれてきてしまった。子供の河童だから、かっぱちゃんだ。
「行っておいで」私は答えていた。河童は川に棲むものだけど、海に行ったっていいと思う。海にともだちがいるなんて、なかなかやるじゃないか。
かっぱちゃんの話は、甲羅と背中の間にポケットがあるからそこに本を入れてほしいとのことだった。どうやら本の大きさが微妙で自分ではうまくできないらしい。
とはいえ、私も初めてのことと少し緊張しながら、かっぱちゃんの首の後ろ側に手を当てて、スッと背中にすべらしてみた。すると、甲羅の内側に手が入ったから、そっと広げて本を入れた。ぴったり収まった。
思わずかっぱちゃんの頭を抱きしめそうになり、あわてて手をひいた。頭のてっぺんにあるお皿が私にはない繊細さで映ったからだ。それで、かっぱちゃんの前にまわって笑いかけてみた。「ありがとう」かっぱちゃんは目を細め、少し照れくさそうだ。私が頭のお皿をガン見していたからかもしれない。お皿には真水が必要だと、さっきひらめいたのだ。
「お水、持っていってね」この季節の外出には欠かさずペットボトルの水を持って出ていたから、それをバックから取り出して、かっぱちゃんに見せる。かっぱちゃんはうなずいて、もう一度背中を向けた。今度もすっと納まった。とてもなめらかだ。
「なんて素敵なの」思わず言葉が出て、かっぱちゃんと私は声を出して笑った。
「お次の方、どうぞ」 カウンターの司書さんに呼ばれて、私は瞬時に声に従った。本の返却を済ませて振り返ると同時に、全く知らない大人が横に立っって、はっとする。私はかっぱちゃんを探して出口に向かった。歩きながら帽子をバックから出そうとして取り落とす。拾おうと屈むと、目の端でツユクサ色のつま先が動いたような気がした。
「待って。この帽子・・・」その後は続けていえなかった。
たぶん、私は、今、私の話をしたい。あの本のこと、かっぱちゃんが海でともだちと読みたいといった本のことを話したい、いや、聞きたいのだと思う。本のことを聞いて、それから。
誰かが入って来たらしい。出口の自動扉が開いて、この夏最初のセミの声が届く。
「かっぱちゃん」
ゆっくりと前を向きながら、私は、眩しいばかりの夏の日差しの手前で呼びかけた。