平和への祈り
今日8月6日は
広島原爆の日
終戦から78年
私の父は18年前に他界しましたが
広島震源地2キロでの被爆者でした。
私も小さい頃から被爆者の集いなどに
一緒に行って、戦争の話をたくさん聞きました。
「はだしのゲン」何度も見ました。
時代が変わっても
忘れてはいけないことがある
下記は25年くらい前に被爆者の会で作った記念誌に
父が書いた文章ですが
父の人生や想いを
改めて心に刻み
伝えていかなくては
いけないと思います。
戦争で亡くなられた方々のご冥福を
心よりお祈りいたします。
争うのではなく
奪うのではなく
おかげさま
おたがいさま
支えあい調和する道を探し
いのちを大切に
誰もが尊重されて生きることのできる
世界を祈ります
今
ここに命を授かっていること
生かされていることに感謝し
ひとりひとりのからだの調和が
世界の平和にも通じると信じて
私も出来ることをやっていきます。
************************
「私の人生を変えた ピカドン」
原爆。
それは頭の中では、ささやかにやっと思う出せるくらいの
幻の出来事でしかありません。
しかし私の体の中には確実な記憶としていつまでも残り、
姿形を変え現れながらずっと共に生きてきた事実そのものなのです。
広島で原爆を受けたのは、7歳の時でした。
朝、学校に行く途中、友達の家の玄関で待っていた時
突然ピカッーと目の眩むような光に続き
ドーンと大きな音と共に、気がつくと家の下敷きになっていました。
やっとの思いで這い上がると、あちこちから火の手が上がりだし、
あたり一面どこまでも見渡すことが出来たので方向感覚もなくなり、
とにかく安全な場所を探して、友達の家族の人と一緒に
逃げるしかありませんでした。
川を渡ろうとしても橋はなく、
胸まで水につかって
動物の死骸が流れてくるのを避けながらも、
大人の人をすがって必死に渡り切りました。
とりあえず安全な場所につくと、友達の家族とは別れ、
たくさんの人のいるところを目指して、
一人泣きながら
親を探し、さ迷い歩き続けました。
やがて集合所のような場所で保護され、
どのくらい経ってからか、親戚の人が私を引き取りに来ました。
親がどうしているのか、その時私には知る由もありませんでした。
何ヵ月かして、長崎県庁に努めるご夫婦に子供がいないということで
私を養子にする話が出たその時、
初めて母と妹に合うことが出来、父の死を聞かされました。
やはり、私は長崎にもらわれて行くことになりました。
以前から出来ていた身体のブツブツは消えず、
特に手の指と指の間はグジュグジュにただれ、
離そうとしても痛いばかりで、
薬を染み込ませてやっと離すという
繰り返しの苦しい毎日が続きました。
養父母は温泉に連れて行ってくれたり、
薬や手当のおかげで、
1年くらいで良くなってきました。
しかし、何となく身体がだるいのが続き、
いつもゴロゴロしていたのでよく注意されたのを覚えています。
中学1年の時、養父が事故死し、
私は学校から帰ると
船着き場で最終船がなくなるまで新聞売りをして
何とか家計の助けになろうと必死に頑張りました。
養母が再婚することが決まると、私は孤児院に預けられました。
そして半年後、再度養子の話が決まり、施設を出て新しい家に行きました。
子供時代は、とにかく「いい子」でいることが私の使命でした。
いつまでもそこにいさせてもらえますようにと願いながら。
こうなることは自分の運命だと小さな胸に言い聞かせていたのか、
誰を恨むわけでもなく、過ぎていく毎日と生きていくことに精一杯でした。
大人になっても、身体のだるさは私に付きまといました。
また冬になると手の指先が氷のようになり、かじかんで力が入らなくなり、箸や鉛筆さえも使うことが出来ないほどに感覚がなくなり、
洋服の仕事に就いていたが、針を持てないのは致命的でした。
今のように冬でも暖かい暖房はなく、同僚に冷やかされるほど、
冬だけは何度もトイレに行っては自分の体温で指先を温めて
だましだまし仕事を続けましたが、それにも限界があり、
職を幾つか変わりました。
自分の中で起こっているこの事実は、何故だか誰にも
(結婚して出来た家族にも)
言えなかったし、言いたくなかったのです。
それこそが自分の中で一番辛いことでした。
やっとこの歳になってはじめて言えるように会ったのですが、
身体のだるさも手のかじかみも未だに続いています。
また以前から視野が狭いと思っていたのですが、
最近になって急に見えなくなり、
歩いていても人と接触したり段差で転んだりしてしまったりするので、
病院で診察したら、
視野がほとんどなく正面しか見えていないことがわかりました。
「網膜色素変性症」という難病でした。
だから今は人の多いところや暗いところは
怖くて歩くことはできません。
私の身体に起こってきたこんな様々な症状は、
すべて原爆と関係あるのかどうかはわかりません。
しかしそれは原爆という出来事と同じように
私の背負った運命のひとつひとつが
私から離れることはないでしょう。
この不自由な身体から解放され、
ホッとして感情を押し殺すことのない
本当の素直な自分になれるのは、
私が生まれ変わったときなのでしょうか。