「“ふつう”になりたい」と言われたら
今回は、子どもに「“ふつう”になりたい」と言われたら、というテーマです。
年が明けた頃から進路の相談が増えてきます。例えば、新しい環境に希望を抱いて、笑顔とともに「“ふつう”に進学したい」という子がいる一方で、周囲からの「どうするの?」という強いプレッシャーに押され、辛い顔で「行けるものなら“ふつう”に学校に行きたい」と答える子も少なくないように思います。
そんな「ふつう」という言葉をいったいどう捉えたら良いのでしょうか。いずれにしても、保護者としてその言葉を素直に受け取って良いものか悩んでしまいます。
不登校の特徴の一つに「不安」があります。不登校になってしまうことで、これからどうなるかわからないことへの不安です。その不安は学校に行っていたときにはなかったし、また行けるようになったら、その不安は消えるかもしれない。だから、わかりやすくて安心できるかもしれない「ふつう」を求めるのだと思います。逆に言えば、今はそれだけの「不安」があり、焦りや悩み苦しみがあるのかもしれません。
そもそも、「ふつう」という言葉は、「ありふれている」という意味なのに、どこか「ふつう」にとらわれてしまっているかのようです。そんな状態で、子どもの後押しをしても、子どもが背負うストレスは変わらないのではないでしょうか。
むしろ、今の自分が「ふつう」であることに気が付くことができるか。文科省が言う「根強い偏見の払拭」の意義はここにあると思います。
例えば、ネットや不登校イベントなどで、同じような境遇の友達ができて元気になってきた、という話はよく聞きます。きっと、それは、自分の中の「ふつう」が広がって、自分だけではない、と思えることで、不安が和らいだのだと思います。そして、それが、もっと広がることがわかったら、色々と選択肢を作ることができるようになります。
そんなとき、私が大切にしている視点は、子どもが好きなことに正直でいられるか、ということです。私自身も、今でこそフリースクールをやっていますが、子どもの頃は先生になることが夢でした。でも、学校の先生にとどまらず、子どもとじっくり向き合うという、自分の好きなことを少しずつ形にしていったら、フリースクールになったのです。
最近、ある学生がフリースクールで働きたいと話してくれました。それを聞いて、私はすごく面白く感じました。自分が子どもの頃にはフリースクールはなく、そこで働くということは考えようもなかったのですが、いつの間にかそれはみんなの「ふつう」になったようです。
同じように、子どもが大人になる時には、どんな未来があるのかわかりません。そこで大事なことは、自分の好きと強みを自覚できているかどうかだと思います。文科省も、不登校支援として、社会的自立ということを強く打ち出していますが、それは社会の中で自分がどう生きるかということではないでしょうか。
その一歩として、子どもの「ふつう」がもっと広がってほしいな、と思います。