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不登校と我慢

 数年前に、私自身が小学生の子を持つ親になって、登校させることが親子に課せられた試練であるかのような感覚を初めて実感しました。乗り越えて然るべきもので、子どもを学校へ行かせることで初めて“家族が”社会の一員として認められる。そんな感覚です。

 理解はしているつもりでしたが、実感してしまうとやっぱり怖いです。そのような価値観から見ると、不登校は試練から逃げることであり、「本当にそれでいいの?」という圧力がかかります。

「普通は学校なんて誰でも行ける。それなのに、学校に行けなくなってしまったら、将来生きていけないのではないか。学校くらい行けないでどうする。我慢が足りないのではないか」と。

そこで、今回はそんな「不登校と我慢」について書いてみたいと思います。

 休むきっかけと思われるような出来事は、周囲の目から見ると本当に些細な、そんなことで休むのかと思うような一場面かもしれません。だから、休むことに対して理解が得られないことも多いです。

 でも、保護者から相談を受ける中で、子どもが学校を休むまでの様子を聞くと、本当によく学校生活を頑張ってきたのだな、ということが伝わってきます。上手く手を抜いたりできることもいっぱいあったと思うのですが、何事にも全力投球で、たくさん耐えてきたのだろうということは想像に難くありません。

 そう考えると、不登校は、逃げずに向き合い、耐えて頑張ってきた結果なのであり、その子にとっては十分すぎるほどの「我慢」を痛いほど体験し、学んできたのだと思います。

 それを子どもは見せないようにするし、言語化できないこともあります。

 そうして、心も体も耐えられず、身体症状や心が拒否しているという状態になってるのですから、それ以上の我慢は求めようがありません。

 そもそも、学校で強いられるそのような我慢は、子どもの糧となる学びになっているのでしょうか。

 例えば、特に休み時間が辛いという話を聞きます。

 私自身も体験したことですが、わずか10分が、とてつもなく長く恐ろしい時間なのです。緊張で、すべてのエネルギーが消費され、本を読むふりをしながら汗がにじみ出るのを感じていました。

 そんな状態ですから、休み時間に耐えるためのエネルギーを授業中に貯めなければなりません。授業中は寝ていたり、ぼーっとしたりする時間に当てられました。当然これでは勉強できるわけがありません。集中しようがないのです。体の内側から生じる抗いようのない拒絶反応と、それを耐えた先に何があるのかもわからない不安。今、覚えているのは当時の恐怖心だけです。

 忍耐力や我慢がいらないということではありません。

 でも、人は何かを目標にして、そこに向かう過程で、我慢する機会があると私は思います。我慢を学ぶのではなく、学びの過程に忍耐もあるのです。だから、まずは学びたいと思える気持ちと、そこに向かおうと思える力をたくわえるために、不登校という時を大事にすることに意味があると思います。

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