不登校「見守る」のは辛いか
今回は「見守る」というテーマで書いてみたいと思います。夏休みが明けてからの相談を受ける中で、保護者の方が「見守る」ことに悩んでいるように感じたからです。
私も不登校支援者として、20年くらい前からずっと、「見守りましょう」と言い続けてきた一人です。
そんな主張をし始めたころは、「見守る」ということ自体がまだまだ新しい姿勢でした。不登校の子どもに対してどうかかわるべきかが問題とされている時代にあっては、ある意味で「かかわらない」というのはそれだけでインパクトがあり、大人の視点を変える一つのきっかけになったと思います。
しかし、最近「あまのじゃく」な私は言うのを控えるようにしています。
ある保護者の方が「毎日行けない姿を見ていると、原因もわからないし、何をしてあげたらいいのかわからない。子どもも苦しいかもしれないけど、私も悲しい。行けないとわかっていても、見守るだけでは辛いです。もう相談するのも疲れました。」と話してくれたことが強く印象に残っています。
今や学校の先生もお医者さんも、支援者や身近な友達でさえも、「見守っていきましょう」と言う声があがるようになりました。
子どもが不登校になってから保護者の会やフリースクールなどに相談すると、「見守っていきましょう」と言われたり、見守ることで子どもの様子が改善したという体験談を聞いたりした方は少なくないように思います。
そうすると、自分の子も見守ることで良くなるかもしれないと期待してしまいます。
しかし、そんな思いとは裏腹に、子どもは、ゲームばかりで昼夜逆転してしまうなど、全然良くならないばかりか、むしろ悪くなっていると思うような状態になることがあります。
それでも、「見守る」ことは余計なことはしないし言わないということだから、手を差し伸べたい想いをずっと我慢し、せめて何とかわが子を知ろうという思いで、注意深く見ている方がいます。わが子のことを知らないことを恥じたり不安に思ったりすることもあるようです。
私が「見守る」ことで大切だと考えるポイントは、子どもについて知らないことをどれだけ増やしていけるか、ということです。こう書くとおかしなことに思えますが、見守ることの緊張感をどれだけ取り除けるか、ということです。言うまでもなく、見守ることは監視することではありませんし、場合によっては、かかわることで楽しい空間が生まれることもあります。
なぜそう考えるかと言うと、子どもが不登校になって辛いと感じる一つは、「見られる」ということだと思うからです。それは、他人の目であったり、自分自身の目であったりします。
不登校という対象に限らず、また誰しもが、悩み苦しむ姿を見られたくはありません。それなのに、家の中で、見られたくない姿を見られることが辛いし、親としても見なくてよかったはずの子どもの姿を見てしまうことも、また辛いものです。
不登校の話でよくある「夜に家族が寝静まってから、子どもが活動を始める」というのも、誰かの視線を気にすることがなく、自分の姿を見せなくてすむから、という側面があるように思います。
そんな環境になってようやく、内面を見つめることができたり、自由に思いを馳せることができたりします。また、いろんな活動をする、あるいは何もしないということを選択できるのかな、と思います。
子どもが元気になったという保護者の話を聞いていると、子どもの様子を「わからない」と答える方が割と多いです。「よくわからないけど、笑い声が聞こえてくるし、なんだか楽しそうよ」と。
そんな風に保護者自身が気を配る負担を減らしていけると、心の余裕を生み出すことができますし、子どもを見るまなざしは優しいものになると思います。また、子どもとも柔軟なかかわりができるのではないかと思うのです。